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ひとりぼっちのさる

 ひとりぼっちのさるがいました。

 ひとりぼっちのさるは、いつも一人でした。

 でも、寂しいと思ったことは一度もありません。

 

 ひとりぼっちのさるは、一人で散歩をするのが好きでした。

 一人で絵を描くことも好きでした。

 一人で音楽を聴くことも好きでした。

 他にも好きなことはたくさんありましたが、ひとりぼっちのさるは、一人で過ごす時間がなにより楽しかったのです。

 

 ある日、ひとりぼっちのさるがいつものように散歩をしていると、いっぴきのさると目が合いました。いっぴきのさるは微笑んで軽く会釈をしましたが、ひとりぼっちのさるは気がつかなかったふりをしました。それからお気に入りの川の畔につくと、いつものように絵を描きはじめました。すると、さっきのいっぴきのさるがやってきて、

 「いい絵だね」

と言いました。

 ひとりぼっちのさるは、それでも黙って絵を描き続けました。

 

 次の日も、その次の日も、そのいっぴきのさるはやってきて、

 「上手に描くもんだなぁ」

とか、

 「ぼくも描けたらなぁ」

と、ひと言ふた言おいて帰っていくようになりました。そのうち、ひとりぼっちのさるが描き終わるまで傍らに座って過ごすようになり、ひとりぼっちのさるが帰り支度をはじめると、

 「じゃ、また明日」

と帰っていくのです。

 

 最初のうちは、

 (けむたい奴だな)

と思っていたひとりぼっちのさるも、いっぴきのさるが来ないと、

 (どうしたんだろう)

とか、

 (風邪でも引いたかな)

と通りの方へ目をやるのに忙しくなり、ちっとも絵筆がすすまなくなりました。

 そして、いっぴきのさるが手に花なんかを持ってやって来るのが遠くにみえると、慌てて絵の構図を確認する仕草をして、さも君のことなんか気にしていないと言わんばかりに絵を描きはじめるのでした。

 気持ちを隠したいばかりに、そんな日はしかめっ面をよりいっそう渋面にして、話しかけられてもろくに返事をしませんでした。

 いっぴきのさるは、そんなひとりぼっちのさるの心を知ってか知らずか、

 「今日は調子が良くないみたいだ。邪魔をしちゃ悪いから帰るね」

と、あっさり行ってしまったことがありました。

 その時、ひとりぼっちのさるは、世界に取り残されたような気持ちになりました。

 だから、最近では、いっぴきのさるがやってくると、

 「やぁ」

と自分から声をかけるようになりました。

 そうすると、いっぴきのさるはとても嬉しそうにして、

 「ぼく、邪魔なんじゃないかと思ってた。よかった」

と、心からほっとしたように笑うのでした。

 

 もうじき、描いている絵が完成しそうでした。

 そうすると、ひとりぼっちのさるはまた落ち着かない気持ちになりました。

 いっぴきのさるは、気づいているのかいないのか、こんなことを言いました。

 「この絵が完成したら、また別なところで描くの? 」

 「まだ決めてない」

 「そっか。なら、この間ここへくる途中で見つけた花畑はどうだろう。とても綺麗だったんだ、時間を忘れてしまうくらい。今度、行ってみる? 」

 ひとりぼっちのさるは、答えられずにいました。答えられずにいると、いっぴきのさるが答えを出してしまいました。

 「あぁ、嫌ならいいんだ。もし、と思っただけだから」

 その日は気まずい沈黙のうちに日が過ぎていきました。太陽が山の端にかかる頃、ひとりぼっちのさるは何か言わなければと思いました。そして、

 「明日もくるの? 」

と後ろを振り返って聞いてみました。

 「いつ完成するかな」

と逆にいっぴきのさるは聞きました。

 「たぶん、あと三日くらい」

 「そう」

と答えたいっぴきのさるは太陽を背負って影の中に入ってしまい、顔がよく見えませんでした。

 あの笑顔がみたいなと、ひとりぼっちのさるは思いました。

 結局、明日もくるのか答えることなく、いっぴきのさるは背を向けて帰ってしまいました。

 手をあげたようにみえたけど、それも沈む夕陽が邪魔をして、よくわかりませんでした。

 

 ひとりぼっちのさるは、なぜあの時「行く」と答えられなかったのだろうと、ぼんやり思いました。

 

 それから次の日。

 ひとりぼっちのさるは、いっぴきのさるがやって来るのを待っていました。

 あれから一晩考えて、「君がそんなに言うのなら行ってやってもいい」と言うつもりでした。

 心がすっきりしたのか、余計なことは考えたくなかったのか、今日は通りを気にすることもなく、絵筆がよくすすみました。

 なんなら、「この絵を君にあげてもいい」と言ってやろうと思い立ちました。そしたらあのさるは、どんなに嬉し気にするだろうと自分の思いつきに一人ほくほくしてました。

 そうしてとうとう、いっぴきのさるは姿を現しませんでした。

 ひとりぼっちのさるは、完成間近の絵を、川へ放りたくなりました。けれどそれも癪に障るので、乱暴に身支度をすると、

 「あんな奴、もう二度と口を聞いてやるもんか」

と独りごち、家路につきました。

 帰り道の間、

 (あんなさるのことなんか、これまでも気にかけてやったことはない、これからだってあるもんか)

とすっかり忘れてしまおうとしました。夕飯のことを考えて、少し贅沢をしようと思いました。楽しい気持ちになり、

 (ほら、すっかり忘れたぞ! これからだって一人の方が何倍も楽しいさ)

と自分に語りかけました。すっかり忘れたつもりになって、

 (だから一人の方が楽なんだ。煩わされることがない。なんて一人は楽しいんだろう)

と思い込もうとしました。さてこれからどんな楽しいことを一人でしようかと思いながら、

 (あいつは最初から寂しそうな奴だった。あいつは一人で過ごす楽しさを知らない。だから平気で人を誘って、自分のお気に入りを押しつけようとするんだ。そうだ!ぼくはそれが嫌だったんだ。だからあいつに答えなかった。それでいて勝手に傷ついて、ぼくを悪者にしたてあげるんだ)

と、いっぴきのさるのことばかり考えていました。そうしてそんな自分には気がついていませんでした。

 だから、夕飯はいつもより贅沢をしたのに、ちっとも楽しくありませんでした。楽しくないのを、不味かった食材のせいにしました。

 眠れないのも、高いだけで不味かったワインのせいにしました。

 

 次の日は、雨でした。

 いつもより遅く起きたら、窓の外ではしとしとといつ降り出したのかわからない雨の音がしていました。いつ止むのかもわからない空模様をみて、なぜかひとりぼっちのさるは、ほっとしていました。

 出かけられない言い訳を、雨がくれたような気持ちでいました。

 のろのろと起き出して、さて今日は何をして過ごそうかと、部屋を見渡しました。がらんとしてみえる部屋で、ひとりぼっちのさるは今までどう過ごしていたのかわからなくなっていました。

 (雨が降ったのは久しぶりだから)

 そう思いました。

 鬱々とする気持ちも、雨が上がれば良くなるだろうと思うことにして、ゆっくりと音楽を聴きながら寂しくみえた部屋の模様替えをはじめました。

 昨日のまま放っておいた画材袋には目もくれませんでした。

 自分の描いた壁の絵をなるべく華やかなものへと変えました。飾ってある花の水を取り替えて目に入りやすい所へ移してみました。もともと一人で気ままに暮らしてきた部屋です。すぐにすることはなくなりました。

 目に入る花をみて、あの日、遅くやって来たいっぴきのさるの手にあった花を思い出していました。

 (こちらの気もしらないで、呑気なもんだな)

と腹を立てたことも。口を聞かずにいたら、帰ってしまったことも。あの後、素直になれなかった自分を後悔したことも。

 少しだけ素直になって、こちらから声をかけた時の、あのいっぴきのさるの笑顔を。

 寂しいと思いました。

 ひとりぼっちのさるは、はじめて、寂しいことを自分の心に認めました。

 雨の音に合わせて、静かに音楽が耳に流れました。ひとりぼっちのさるは、音楽の任せるままに、静かに静かに泣きました。

 (一人でも楽しかったのは、自分の心に素直に生きてきたからだ)

 ひとりぼっちのさるはそう思うと、放ったらかしにしていた画材袋から描きかけの絵を取り出しました。それから、一心に絵筆をすすめていきました。

 

 次の日は、すっきりと晴れた青空が広がりました。

 ひとりぼっちのさるは、丁寧に包まれた紙袋を手に持ち、いつもの川の畔でそわそわと通りの向こうへ目を凝らしていました。

 川面は昨日の雨で増水しはち切れそうでした。流れも速く、それでも日の光を受けていつも以上に輝いてみえました。

 通りの向こうから、いっぴきのさるがやって来るのがみえました。何やら、大きなものを抱えて歩いてきます。

 ひとりぼっちのさるは待ちきれなくなって、通りへ駆け出していました。

 いっぴきのさるは、そんなひとりぼっちのさるを嬉しそうに眺めると、

 「やぁ、助かった。手伝ってくれる? 」

と聞きました。

 ひとりぼっちのさるは、いっぴきのさるに会えたら言いたいことがたくさんありました。ありすぎて、言えなかったらどうしようと不安でいっぱいのところへそんなことを言われ、すっかり面食らってしまいました。戸惑う間に、一緒にその大きな包みを畔まで運びました。

 いつもの場所へ着くと、いっぴきのさるが言いました。

 「開けてみて! 」

 ひとりぼっちのさるは言われるままに包みを解きました。一脚の椅子でした。背もたれと膝掛けのついた、とても座り心地の良さそうな椅子でした。

 「どう? 」

と聞かれて、またひとりぼっちのさるは答えられずにいました。だから、

 「いい椅子だね」

と思ったままに答えました。

 いっぴきのさるはそれを聞くと、ほっとしたように、笑いました。ひとりぼっちのさるがみたかったあの笑顔でした。嬉しくなった勢いで、

 「これ、君に」

と自分の包みも渡しました。描きあがった絵でした。

 いっぴきのさるは、飛び上がるようにして、

 「いいの? 」

と聞いたあとに、少し沈んだようにこう言いました。

 「もうここには来ないんだね」

 ひとりぼっちのさるは、もどかしそうに、だけど頑張って言いました。頑張った分、少し顔は強ばっていました。

 「だからこの椅子は、ぼくの家まで運んでくれなくちゃ困るよ! 」

 いっぴきのさるはびっくりしたように笑いました。ひとりぼっちのさるもつられて、ほんの少し照れたように笑いました。

 

 それから、ふたりは一緒に荷物を運び、一緒に花畑へ行きました。

 

 ひとりぼっちのさるは、今でも、一人で散歩をすることが好きです。

 一人で絵を描くことも好きです。
 一人で音楽を聴くことも好きです。
 他にも好きなことはたくさんありましたが、ひとりぼっちのさるは、加えて、いっぴきのさると過ごす時間も好きになりました。

 一人で過ごすことが、前よりも増して、寂しくなくなりました。前よりも増して、楽しいと思うことがたくさんになりました。

 寂しいと思うことも増えたけど、そんな時は、自分の心に素直でいるか、静かに問いかけてみるようです。

 友達のできた大切な日のことを思い出しながら。

呪いをかけられたカエルの話

‪復讐をしてはいけないと人はいう。‬
‪かつて苛められていた私は、それを、やり返してはいけないと当時は受け取った。‬
‪でも、やり返してるよね、大抵の人は。皆は良くて、なんで私はダメなんだろう?そう思ったっけ、あの頃。‬

 

うんと傷を負った心は、まず仕返しをしないと立ち直れない。怒りが表に出てはじめて涙に変わる。
仕返しをしてやればいいんだよ。
復讐をしてはいけないと怯えるのは、復讐されるかもしれない側にある。

 

そうして、苛められていた私も、傷つけた相手から復讐されるかもしれないと怯える。もしかしたら、先に知らずに傷をつけたのは私だったのかもしれない。悪かったのは私なのだろうか?

 

ずっと心には自責の念があった。
復讐というと、とても恐ろしい響きを持つ。尊厳を傷つけて、相手が生きている限り苦しむ行為を想像してしまう。

まさに当時の私が尊厳を傷つけられて生きている限り苦しまなくてはいけなかったように。

 

呪いをかけられたカエルみたい。

 

だからね、自分の尊厳を守る闘いをしようと思ったんだ。相手の尊厳を傷つける闘いではなくて、私の尊厳を守る闘いを。

具体的に何をしたかって、「やだ」ってまずは文句を口にすることだった(仕返しその1)。
最初は怒りの捌け口として言葉を使っていた(仕返しその2)けど、そのうち、自分の感じたことを伝えるために言葉を使えるようになった(仕返しその3)。
そしたら友達ができた。心から「友達だ」と思える友達が。あれは嬉しかったなぁ。その子とは今でも友達だ。

 

怒りや正論は人を傷つけるということを、私はその頃に知ることができた。知ってからやっと、傷ついてきたけれど私も傷つけてきたんだなと、周りが見えるようになった。
「なんかムカつく」ってだけの理由もわからない理不尽な苛めが、あれは傷ついている人達の捌け口だったんだなぁと思うようになった。
いや、だからといって尊厳を傷つけるのは許さんけど、だからといって正論でさらにその人達を傷つけようとは思わない。ただただ、私は私の尊厳を守るために闘う。
だいたいこんな偉そうなことを言ってても、私だってストレスの捌け口に相手を悪く言いたくなり、実際に言ったりもするのだ。

で、思うのは、文句は未来の私が回収するんだなってこと。今の私が処理しきれない心を、未来の自分に託すようなものだ。そう考えれば、自分でも処理しきれるだけの文句にしておこうと思うものだ。

こう考えるのは私だけではなく、おそらく多くの人が無意識に感じているようなのだ。

感じていない人もいて、そういう人はそれはそれは美辞麗句のように他人を貶すけど。

でもその呪いを受けるのは私じゃない。

そういうわけで、今はもう、すーっと嫌な人からはフェイドアウトする。理由を教えないのは可哀想だなと思っても、それを教えるのも私じゃない。

零した先に誰かが拾うさ。

 

お釈迦様は仰った。受け取って貰えないプレゼントは誰のものになるのだろうかと。

 

文句は未来の私へ呪いをかけることだし、行動や苦しみ悩むことは未来の私へのご褒美となる。余裕がないなら未来へ託すし、結局は今できることをこつこつとってことなんだろう。

 

こうして私の呪いは解けた。

いつの間にか。

だけど人になったのかはわからない。

「お月様より重く、ぼくは君を愛してる」

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 ある晩のこと、ヤジローが空を見上げると、そこにはとてもとても美しい月が浮かんでいました。

 ヤジローは、いっぺんでお月様に恋をしました。けれども、お月様はお月様です。オモイをつのらせても叶うものではありません。日々、重く重くなっていくオモイをどうすることもできなくなって、
 「お月様より重く、ぼくは君を愛してる」
 そういうとヤジローは、その言葉に込められたオモイと同じくらいのオモイを探す旅に出ました。
 叶わないオモイをこれ以上重くするよりも、同じ重さのオモイを持つ人にこのオモイをあげる方が救われると思ったのです。
 これまでよりも一際美しく輝く月がそんなヤジローをみつめているようでした。ヤジローは、そんなお月様を振り切るように、このオモイを叶えてみせようと誓いました。

 

 一番近くの町を目指して歩いていくと、目の大きな、まことに愛らしい人に出会いました。まるで、お月様のように美しいその瞳でヤジローをみると、
 「何をそんなに重そうにしているのですか? よろしければ少し手伝いましょう」
と声をかけてくれました。
 ヤジローは少しの間、その愛らしい人にオモイを半分だけ持ってもらうことにしました。
 半分とはいえ手渡されたオモイの重さに愛らしい人は驚いているようでした。
 ヤジローは、やっぱり断ろうとしました。
 けれど愛らしい人は自分が言い出したことだからと、よたよたしながらも町まで運んでくれました。
 着くまでの間、ヤジローは、お月様に恋をしたことや、このオモイと同じ重さのオモイを探していることを話して聞かせました。
 町へ着くと、愛らしい人はほっとしたようにヤジローへオモイを返しました。
 ヤジローは、愛らしい人が好きになりました。もう最初にあの瞳で見つめられた時から好きになっていました。
 だから返されたオモイと持っているオモイを全てその人にさしだしてこう言いました。
 「このオモイの全てを君に」
 すると愛らしい人は慌てたように、
 「私にはとてもそんなに重いオモイは持てません。もう疲れてしまいました。そして、私にはそれと同じだけのオモイがありません」
と言うと、ヤジローから去って行ってしまいました。
 ヤジローは疲れたように町の広場の泉の前に腰を下ろすと日が暮れるまでそうしていました。月はなく、代わりに泉の女神像が優しく見下ろしていました。
 オモイがまた重くなったように感じてため息を一つこぼすと、ヤジローは次の町を目指して歩きだしました。

 

 ふたつめの町で、ヤジローはまた恋をしました。
 とても繊細な心を持つ娘でした。
 でもその娘も、
 「私にはとてもそんなに重いオモイは持てません」
と言いました。
 ただその娘は、ヤジローが落ち込んでいるのをみて胸を痛めたのか、こんなお願いをヤジローにしました。
 「全部は受け取れませんが、もしよろしければその重いオモイの中から少しだけ、オモイを分けて下さい」

 

 ヤジローは旅を続けました。自分のオモイを全て貰ってくれる相手を探し続けました。そして代わりに同じだけのオモイをくれる相手を探し続けました。
 けれどいくら探しても、全てのオモイは重すぎると、どの男も女も少しだけ貰っていくばかりでした。
 恋を重ねるにつれて、ヤジローの重いオモイは少しづつ小さくなり、ついには右と左それぞれの手に一握りづつのオモイしかなくなっていました。

 

 気づけばヤジローは最初の町に戻ってきていました。
 泉の前に座り込むと、ヤジローは小さくなったオモイを手にして、泣きたいような笑いたいような気持ちで月を探すように空を見上げました。
 「こんな軽さじゃ、誰も愛せない」
 月はなく、あの時と同じように女神像がヤジローを見下ろしていると思いました。けれど、それは人でした。
 唯一、ヤジローから少しもオモイを受け取ろうとしなかった、あの愛らしい人でした。愛らしい人はあの月のような瞳でヤジローをみつめると、こう言ったのです。
 「あなたがまだ私にそのオモイを下さるというのなら、今こそ、その片方のオモイを私に与えて下さい。代わりに、私のオモイも半分あなたにさしあげます」
 ヤジローは、素直にその申し出を受けました。誰も愛せないのなら、あげられるものは誰にでもあげてしまいたかったのです。
 すると愛らしい人は嬉しそうな笑みを浮かべると、月の光を放ちながら姿を消してしまいました。
 ヤジローは、その光の中で、これまでに感じたことのない満ち足りたオモイを受け取ったのです。
 後には、女神像の代わりに大きな大きな満月が、広場中を照らしていました。
 ヤジローの手には、思うオモイと同じだけの思われるオモイがしっかりと握られていました。

 

 そうして両方の思うオモイと思われるオモイを右と左それぞれに持ちどちらも重くならないように、今ではヤジローが広場を優しく見守っているのです。
お月様と共に。

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私を引き止めたもの

今日、死にたいと呟く人の言葉に立ち止まった。
あの頃の自分を思い出して、痛くなった。
そうして、あの時私を引き止めたものはなんだっただろうと、考えていた。

また。

ほんとはずっと考えている。あれからずっと。

 


「わからない」だ。

私を引き止めたもの。


今から20年前の二十歳前後の頃のこと。

毎日、毎日、「死」について考えていて、生きるってなんだろう、死ぬってなんだろう、意味はあるんだろうか、あるとしたらどんな意味が?ないとしたら?死んでみたらわかるだろうか。死んでみたい。
そんなことを考えていた。
引きずられちゃったんだ。憧れた文学上の人達は自死する人ばかりだったし。
将来を考えても、過去を考えても、苦しいことばかりで、死んでもいいやと思ってしまった。死んでも世界は回っていくし、親も親戚も知人も悲しむのはきっと一時だし、他人に興味がある人なんて本当の意味ではいないしつまり私が死んでも生きてても関係ない、と思っていた。
そんな時、話したことのないクラスメイトが事故死したと耳にした。
自分が考えていた「死」ではない、「死」。外からの「死」。悲しくはないけど動揺したのを覚えている。ここに死にたいと思う人間がいて、死にたくなかったであろう人間が死んでいく。
途端に、自分が出した結論に自信がなくなった。というか、違う「死」への考察がみえてね。「わからなく」なった。
もう少し生きてみようと思っているうちに、父が病気になり、実家に帰る私と転勤する彼と互いに遠恋は無理と、あれよあれよという間に婚約結婚妊娠して、父が亡くなる。この間わずか一年足らず。
また、「死」がわからなくなった。
悲しくてたまらなかった。20年を経た今も、父を思えば悲しくてたまらない。悲しむのは一時だなんて、そんなことなかった。私が生きてる限り、父の死は悲しいし、寂しい。同じように、思い出せば暖かくて嬉しくて懐かしい。言葉は思い出と共にあり、笑顔も温もりも私と共にある。死んだ父をありありと感じる。死は悲しいだけじゃない。

 

あの時の答えとはずいぶん違う。同じ私から出てきたものなのに、ね。

わからないもんだ。

答えなんて。
今、結論づけたことも、未来はわからないんだ。実感を伴ってそう思う。

そして、私以外の人は、また私とは違う答えを持っているんだろう。同じ私の中から様々な答えが溢れてくるんだから。
命を紡ぐって凄いよね。わからない余白がさ、いつだって未来を模索して、進化させていくんだ。
私にはわからない。
けれど、私じゃない後のものには、わかる時がくるかもしれない。

だから、いつ死んでもいいけど、なるべく多くの答えを残していきたい。

「わからない」と言いながら。

いつ死んでもいいように、考え続けるだろう。

「わからない」に希望をのせて。

 

あなたを引き止めているものはなんですか?

柊の連れてきたもの

〜大ちゃんの贈り物シリーズ 2〜

 

 

 風がびゅうびゅう吹いています。
 学校の帰り道、小学一年生の大ちゃんはとぼとぼと歩いて帰ります。
 朝は、大きいお姉さんやお兄さん達と一緒に登校するので寂しくありません。霜柱をパリパリさせたり、水たまりの氷を持って向こうを眺める楽しみもあります。
 帰り道はひとりです。けれど、春は桜の花びらで遊ぶこともできます。夏は木登りをしたり、虫を探したりと忙しいくらいです。秋は綺麗な落ち葉や木の実で遊びます。だからつまらなくなったりはしません。
 でも、冬はダメです。霜柱も氷も朝のうちだけで、帰る頃には溶けてしまうからです。いつもは遊び相手をしてくれる木々も草花も、ひっそりとしてしまって、大ちゃんの相手をしてはくれません。落ち葉も溶けた霜がぐっしょりびちゃびちゃにしてしまうので、冬の間はあまり楽しい遊び相手とは言えませんでした。風だってなんだかいじわるになって、今もびゅうと吹くと早く家に帰れと急かすのです。
 大ちゃんはそんな風の言うことを聞くのも嫌で、後ろを振り返るとにらみつけてやりました。
 すると、風は怒ったのかさらにびゅううとうねり、大ちゃんに向かって何かをぶつけました。
 「いたっ」
 まともに顔にぶつかって、大ちゃんは思わず声をあげました。足元をみると、ギザギザの葉鍵がついた柊でした。から豆も束になっているのをみると、どうやら節分のお飾りのようです。

 

 今朝、お母さんがお家の玄関に飾っているのをみました。鬼がやってこないように飾るのだそうです。

 幼稚園に通っていた頃、色々な鬼がきては大ちゃん達を追いかけ回していく日が節分でした。一所懸命に豆で退治して、小さい子を守るのが大ちゃんは誇らしかったので、
 「そんなのなくても、僕がやっつけてやるよ」
と言ったら、お母さんは笑いながら、
 「ありがとう。でも、大ちゃんが学校に行っている間に来られても困るでしょう」
と言いました。大ちゃんは、そうかと納得すると、
 「じゃぁ、帰ってきたら僕が守ってあげるね」
と、勇ましい気持ちで家を出たことを思い出しました。

 

 大ちゃんは、
 ( そうだ、早く家に帰らなきゃ )
とその柊を拾おうとしました。

 するとまた風が吹いて、大ちゃんのいる先へと落ちました。慌てて柊を追いかけて捕まえようとするのを、ひらりひらりと交わされて、大ちゃんはなんだか意地になってきました。
 絶対に捕まえてやる! と、追いかけているうちに、林の中へと入り込んでしまったようです。
 帰り道も柊も、落葉にまぎれてどこにあるのかわからなくなってしまいました。
 大ちゃんは、急に心細くなりました。泣きべそをかきたくなったら、正面から風が強く吹きつけて、それをぐっとこらえた時です。
 「いたっ」
と、どこからか小さな声がしました。
 「誰?」
と大ちゃんが声をかけても返事はありません。

 まるで木々までが息をひそめて見つからないようにしているみたいです。
 もう一度、大ちゃんは、
 「誰かいるの?」
と、声をかけました。驚かさないように、なるべく優しく聞きました。それを台無しにするように、風がびょおうと吹きました。

 また、
 「いたい、いたい! 」
と声がして、ひときわ大きなブナの木の後ろから、小さな影が飛び出しました。
 大ちゃんより頭一つ小さい子供でした。
 よく見ると、もじゃもじゃの髪の毛に柊がからみついて、まるで格闘しているようでした。
 大ちゃんは、
 「待って。とってあげる」
とその子に近づくと、暴れないでと言いながらゆっくりとほどいてやりました。もじゃもじゃの髪の毛から、にゅっと耳が突き出ているので、棘が当たらないようにするのは一苦労でした。最初はバタバタしていた子も、そのうち大ちゃんのされるがまま、じっとしてくれました。
 「君も柊を追いかけてきたの? 」
と聞くと、
 「おいらは追いかけられてきた」
と言います。不思議なことをいう子だなと思っていると、
 「これ、お前の柊? 」
と聞いてきました。それで、大ちゃんは、早く帰らなければいけないことを思い出しました。この柊が大ちゃんの家の柊なら、今頃お母さんは鬼に追い出されてしまっているかもしれないのです。

 柊も取れたので、
 「僕、帰らなきゃ! 帰り道、知ってる? 」
と質問には答えずに聞くと、その子は口を顔いっぱいに広げて、
 「じゃぁ、今度はお前と追いかけっこだ! 」
 そう言うが早いか、たっと駆け出してしまいました。
 大ちゃんは思わず、柊を持ったままその子を追いかけました。
 「待ってよー」
 小さいくせに身の軽いその子は、大ちゃんの鼻の先で、からかうようにあっちへ行ったりこっちへ行ったりします。なかなか捕まえられない大ちゃんは、
 「帰り道を教えてほしいだけなんだってば」
と乗り気じゃなかったのに、そのうち楽しくなってきました。
 全身がぽかぽかしてきて、暑いくらいです。そこで大ちゃんは、

「ちょっと、たんま」

と言うと、身につけていたマフラーと手袋を、背負っていたランドセルにしまおうとしました。
 いつの間にかそばにきた小さな子が、興味しんしんでそれを見ていました。大ちゃんは、ふと、短パンで長シャツ一枚のその子がとても寒そうなことに気がつきました。だから、
 「貸してあげる」
と、その子の首にマフラーを巻いてあげて、手袋を両手につけてあげました。
 「あったかい」
とその子はくすぐったそうに笑いました。
 大ちゃんもなんだかくすぐったくなって、ふたりで顔を見合わせて、うふふと笑いました。
 その子は、大ちゃんの手をとると、
 「こっちだよ」
と言いました。
 「追いかけっこはもういいの?」
と聞くと、
 「もう捕まったから」
とその子は言いました。
 大ちゃんは、あれはたんまの最中だったからなしだよと言おうとしましたが、嬉しそうにしている子をみてやめました。
 小さな子に手を引かれて林の中を歩いていると、大ちゃんはなんだか心まであったかくなるようでした。
 林を抜け出ると、いつもの通り道でした。
 もう少しその子と一緒にいたかったから、大ちゃんは、
 「うちにおいでよ」
と誘いました。
 小さな子は、目を2回しばたくと、ふるふると首を振って、マフラーと手袋を返そうとしました。大ちゃんは、
 「それ、着けてていいよ」
と言いました。それから、
 「また遊ぼうね! 」
って約束すると、その子はコクンとうなずいて、林の中に走っていってしまいました。姿の見えなくなる手前で、一度、ぴょんと飛び跳ねたように見えました。
 大ちゃんにはそれが、
 「ありがとう」
に聞こえました。くすぐったくなって、大ちゃんはひとりでうふふっと笑いました。
 それから、走って家に帰りました。
 手には柊を持って。
 カラカラとから豆を鳴らしながら。

 

 家に着くと、玄関には朝と同じように柊が飾ってありました。そうするとこの柊はどこから来たんだろうと、大ちゃんは首をかしげてしまいました。
 お母さんが玄関まで出てきて、
 「おかえり、遅かったじゃない」
と言いました。大ちゃんはただいまも言わずに、柊を渡しました。
 お母さんは、
 「これどうしたの? 拾ったの? マフラーと手袋はどうしたの? 」
と質問攻めにするので、
 「ただいま! 」
と元気よく答えました。
 お母さんは、まったくわけがわからないとぶつぶつ呟きながら、
「そんな大ちゃんの心から話すのを面倒臭がるその癖を追い出してしまわなければ」
と豆を取り出しました。大ちゃんも負けじと、
 「おかあさんのがんこも! 」
と、テーブルの上に用意してあった升を手に持ちました。
 ふたりで部屋を駆け回りながら、互いに、
「オニはーソトー」
と豆をぶつけていると、お父さんが、
 「ただいまー」
と帰ってきました。
 それから3人で玄関口へ出て、
「福はー内ー」
と外から中へ、パラパラと豆を撒きました。
 お母さんが門からも福は内をしようと言いながら通りへ出ていき、
 「大ちゃん! 」
と、大声で呼びました。
 何事かと思ってお父さんと慌てて見に行くと、大ちゃんのマフラーと手袋が丁寧に畳まれて塀の上に置かれていました。
 「誰かが届けてくれたのかしら? 親切な人がいて良かったわね」
とお母さんは言ったけど、大ちゃんはあの子だと思いました。
 きょろきょろと辺りを探しましたが、どこにも姿は見えませんでした。大ちゃんは、がっかりしました。返しにきたことで、もう遊べないような気がしたのです。あの子が寒そうにしていないか、心配にもなりました。返してくれなくて良かったのにと強くそう思いました。
 升の中にある豆の残りを全部握り、門の外へ向かって、
 「福はー内ー」
と力の限り叫びました。
 それを見ていたお母さんが、
 「福はお家に向かって投げて」
と言いました。
 お父さんが、大ちゃんの頭に手をひとつ置いて、
 「お家に入ろうか」
と、優しく言いました。お母さんはまだもごもごと言い足りないようでしたが、お父さんがお母さんの背中に手を回して、お家へ連れて入りました。
 大ちゃんは、さっき拾った柊を持って出ると、マフラーと手袋が置いてあった場所へそっとのせました。

 冬にはない風がふわっと吹いて、庭から梅の香りが微かに漂うと、から豆がカラカラ鳴りました。
 どこかで、あの子がぴょんと跳ねたような気がして、お家に入る手前で大ちゃんもぴょんと飛び跳ねてみました。
 それから、そっと玄関を閉めました。

仲良くするってなんだろう

うちの家族は仲が良い。それは互いに別な考えを持っているから、違う考えの話に触れる時は、「へぇ」で流していく。興味を持った時だけ食いつく。相手の意見よりも自分の意見を述べて満足する←たまに聞いて貰えないことの多いコトが「ルサンチマンだっ」と怒る。最近覚えたルサンチマンを言いたいだけだったりする。
私の実家は、仲は良かったんだろうけど、居心地は悪かった。多分、自分の意見が自由に言えなかったから。←正しいこと。崇高な志であること。後ろめたい気持ちのないことだけが認められるから、清水に棲む魚のようで苦しかった。親は、自分達の濁になる部分をどう受け止め流していくかの答えを、とにかく感謝と謙譲に求めたんだと思う。古来よりの道徳や献身が身を助けると思っていた。でも行動が伴わなくて、苦しんでいるようにみえた。「ありがたいねぇ」と言いながら心の中は不満と不信だらけで、「ありがたいと思わなければいけないからありがたいと口にする」ようにしかみえなかった。
確かに、両親が教えてくれた道徳と謙譲は、私の身を助けてくれるものだったし、その心を教えてくれたことは宝だ。でも、心からそう思えるのは、私が不満をきちんと言葉にして、伝えたい相手に届けて、やっと想いを葬ることができたからだと思う。気持ちを手放すとはこうしたことを指すのだろう。不満だけでなく、思ったことの内、本当に伝えたいことを伝えるのが大切なことだと学んでいる。相手に伝える前に、これを言ったら嫌がるか、喜ぶかを、私が決めることではないんだなぁと。いつでも返ってくる相手の想いを受け止めることができればいいんだ。
そうして自らの家庭を築くようになって、私は両親の築いてきた土台の上に、旦那の両親の築いてきた土台を学びながら、試行錯誤を繰り返しつつ自分の家を建てている。
ひとつ見出した答えは、どんな感情も、誰もが自由に発露できる環境を整えておくこと。それには、互いに相手の感情に引きずられそうになるから、共感して欲しい時、助言が欲しい時、共感はいらないから耳から流して欲しい時を細々と伝えることだ。
具体的にいえば、ありがとうとごめんねが潤滑油になる。褒め言葉というよりも、私はそうしてくれた方が嬉しいと伝えておくと、相手もそうしやすい。それだけの話が難しく感じるのは、自分自身を掴みきれなかったりするからだ。何が嬉しく、何が嫌なのか、その時々によって変わってしまうことなら、流してしまっていいんだなぁって。互いに楽しみながら流せるならそれが一番いいよねぇ。
結局は、感謝と謙譲になるんだけど、そこに至るまでの過程を大事にすることだったんだなと今は思う。先に感謝と謙譲を目指して歩くのではなく、結果としてそこに感謝と謙譲があったらいいねなんだろう。
同じでなければいけないではなく、同じを目指すのでもない。空間を共有するには、それぞれの居心地の良い場所があるのが前提で、境界線をある程度設けておいた方が生きやすいんだろう。きっちり、はっきりしすぎても苦しくなるのは、変化に対応できなくなるから。なんとなくの曖昧さが、葛藤と面白さと楽しさの生まれる場所になる。
仲良くするっていうのも、互いの居心地の良さが確保できた場合に訪れる幸いであって、目指すものではないのかもしれない。

お月様の話してくれたこと

 夜も寝静まった頃、オレンジピールのようなお月様が顔を出した。

 私に見つかって、驚いたようだ。
 なぜって、なんだか鼻がもぞもぞと動いたから。
 私も、お月様に見つかって、なんだかバツが悪かった。
 なぜって、誰もが寝ているはずの深い夜で、もし起きているとしたら用のある人であるからして月なぞ眺めてはいないのだ。
 だから互いに、はにかみながら挨拶を交わした。
 「こんな時間に空を眺めている人がいるとは思わなんだ」
 「お月様もこんな時間に起きてこられるなんて、私はてっきり、もう西の空へとお休みになられたのだとばかり思っていましたよ」
 「月なのだから、いつ夜を歩いても咎められる覚えはないな」
 確かにそうだと思いはしたものの、もう少し嫌味を言いたくなった。
「たまに昼間も出歩いていらっしゃいますよね」
 コホンと小さく咳払いをすると、お月様は誤魔化すように、
 「眠れぬようだから、お話をしてあげよう」
と仰った。
 「何がいいかな。兎が穴に落ちた話がいいか、空飛ぶ絨毯で月まで旅した男の話がいいか」
 両方知っていると答えたら、こんな話をしてくれた。

 


 「昔、お前のように、どんな物語でも知っていると話してくれた男がいたな。
 その男は、そのくせ、自分の知らない、まだ聞いたこともない物語を求めて歩いておった。
 そうして、誰彼に聞いては「知っている、読んだことがある」と全てを聞かずに耳を塞いでしまい、首を振るのだ。
 そんな男を憐れに思うものもたくさんいて、こんな話はどうだ、これならどうだと、あらゆるもの達が話を聞かせようとした。が、終いには誰も相手をしなくなった。
 それはそうだろう。
 見ようともせず、聞こうともしないものに、持ち合わせる言葉など誰も持たないのだから。
 野に咲く花々も、底まで透き通る湖も、気高き山々も、黙して語ることはしなくなった。
 太陽を除いてはな。
 なにせ太陽という奴は、どんなものにも光を与えなければ気が済まないときているものだから、こう男に話してやったんだ。
 「深い深い夜に棲む、月のところへ行ってごらん。あいつはこの世界が始まった時より、多くのもの達の囁きを耳にしているはずだから、きっとお前の知らない物語も知っているだろう」
とね。
 なぜそれをわたしが知っているかって?
 その男が話してくれたからさ。隅々に渡ってね。太陽の話した言葉も、一言一句間違いなしに話してくれたよ。
 わたしは、その男の話を最後まで静かに聞いてやった。男の気の済むまで、ただただ静かにね。男の知っている物語もあますところなく聞かせてもらった。いや、なんとも楽しい夜日々だった。ちょうど千一夜目だったろうか。男の話が終わったのは。喋り尽くして話すこともなくなったのか、彼は今の君のようにひたすら私を眺めていたよ。
 だからわたしは言ったんだ。
 「なんとも楽しい物語の数々をありがとう。これで寝物語がまた増えた。本当に面白い話ばかりだったよ。最後に君自身の物語を聞かせてくれないか。特にこれからの物語を。まだそれは聞いていないと思う」
とね。
 彼はむくりと立ち上がると、
 「僕の物語だって?」
と言いながら去っていってしまった。
 あれから彼には会っていないが、きっと、またいつか話にきてくれるだろうさ。他のもの達と同じようにね」

 

 

 お月様が話終えると、私は深々と反省をした。だから頭を垂れてお願いをした。
 「私の知っている千一夜物語の空飛ぶ絨毯の話とはだいぶ違っていたようです。穴に落ちた兎の話も聞かせて頂けないでしょうか」