ダメってあんがい悪くない

「コトは 最近 困ったことある?」

 

唐突に旦那に聞かれて、はたと、結婚してから困ったことがないことに気がついた。

「そんなことないでしょ。子育てとか学校のこととかさ、なんかあったでしょ?」

と深ぼりされて、本当に心底困っていた10代の頃と今の違いは何だろうと考えてみた。

 

あの頃は、どうしよう〜って悩むことがあっても、誰にも聞けなかったし話せなかったのだ。

今は、旦那に、「どうしよう」って聞けるし話せる。旦那だけじゃなくて、旦那の両親にも聞けるし、自分の母にも話せるようになった。悩んだら、とりあえず、「どうしよう〜」ってこぼせる友もいる。

 

私、相談できるようになったんだ。

 

聞けるってことは話せるってことで、話せるってことは、悩んでも困らないってことだ。困るとは、誰にも聞けないから困るのだ。

 

旦那は、今はなんでもネットで検索できるから、困ることもかなり減ったんじゃないかって話がしたくて、私にそんな質問をしたらしい。

 

確かにネットは、気軽に「どうしよう〜」って言いやすい。

では果たして当時の私はグーグルで困り事を相談できただろうか。

 

できなかっただろうなと思う。

 

何をどう検索するというのか。

誰に、何をどう聞けばいいのかわからなかったように、きっと話せなかったと思う。

 

じゃあなんで話せるようになったのか。

 

ある時期、私は、どうでもよくなっていて、人に対して一番無防備で一番優しかったんじゃないかと思う。

人を責める気持ちが皆無だったから、誰の話を聞いても全部肯定できた。そうして、偉いね、素晴らしいねってどんな人にも思えたし、そう伝えられた。

こんなにダメな私に比べたら、である。

すると不思議なことに、人は私に弱さを見せてくれた。

何言ってんの、私もこんなにダメなのよって。

その時、ああ私ったら、自分がダメなことを隠そう隠そうとしてたんだなーって。少しでも偉く、少しでも良く見て欲しかったんだなーって。こんなにダメなのに。

笑えてきてね。

素のままの自分は、全くのダメ人間であるのに、偉いって思われたいってなんだ?って。

そうして、そんな時に出会って心を開いてくれた誰もが自分のダメなところを抱えてて、ダメだから頑張ってた。

偉いなーって、ほんとに偉いなーって思った。

 

で、私は、ダメだからといって頑張ることもできないダメの中でもダメな人間だから、せめてダメな自分を隠すのだけはやめようって思ったんだよね。

私と付き合ってくれる人達へは、せめて誠実にダメなところをさらけ出していこうって。

 

そしたら、困ってることが話せるようになってた。

 

たぶん、ダメなところは隠さなきゃ、自分でなんとかしなきゃって思ってたから、私は困っても話せなかったらしい。

むしろ、話しちゃいけない くらいに思っていたかも。

自分でもなんとかならないのに、誰かに話してなんとかしてもらおうって卑怯だし、ずるい。自分で考えてからにしようって。

もちろん、話したら自分が責められる、自分の評価が下がる、格好悪いって思いもあった。

 

それが、

 

いやむしろ、ダメと思われた方が私をよく分かってくれてるってことだし、

ダメな私がなんとかしようなんて、ダメなのに何ができるの?

卑怯でいいじゃないか。元々がダメ人間なんだから、

隠すんじゃないよ、

ダメな自分でなんとかしようなんて、怖い怖い、

素晴らしくて偉い人達がやった方が物事は上手くいくじゃないか、

ってな具合に、自分でなんとかしようと、思わなくなった。

 

人を頼ることができるようになったら、自分にもできることがあることに気づかせて貰えた。

嬉しかったよー。

ダメな私にもできることがある。

そこは頑張れる。

ダメな私が頑張れる!って凄い。

不思議だけど、私のダメさをまるっと認めて人を頼れるようになったら、自分に自信が持てるようになれたし、自分を肯定することもできるようになった。

 

そしたら、世の中は、ダメなところがダメなのではなくて、カバーされないことが一番困るとやっと解った。

私じゃないのだ。

私のダメなんてどうでもいいのだ。

なら、ダメをさらけ出した方が、そこはこうやってカバーしていこうってできる。

そうしたらなんだか皆んな、互いに互いの全然異なるダメなところをカバーしながら、この社会は運営されているんだなーってみえてきて、気が楽になった。

 

ダメなまんまを愛してみれば、ダメなまんまで愛されて、ダメなりに生きていけることを知った。

 

ありがたや、ありがたやである。

 

ダメってあんがい悪くない。

「空に帰ったお月さまのおはなし」

 

空を眺めていたら、お月さまがチカチカして、ストンと落ちてきた。

 


そのまんまの大きさで。

 


お母さんに言ったら、

「月って、とーっても遠いところにあるから、そのくらいの大きさに見えるけど、ほんとはとっても大きいのよ」

と、信じてくれなかった。

 


目の前にあるのにな。

 


それからお月さまは空へ昇ることがなくなったけど、大人は気がつかないみたいだ。

 


お父さんに、

「最近、お月さま見た?」

と聞いたら、

「そういえば見てないな」

と、ケイタイばかり見て顔をあげようともしなかった。

空を見上げて一緒に探してくれたら、「じゃじゃーん」って自慢しようと思ったのにな。

 


空も見上げずに、お月さまが見られるわけないじゃんね。

いや、見られるんだけど。

だって、ほら。

お月さまったら、あれから空へ帰りもせずに、ぼくの部屋にいるからさ。

 


お月さまって、とっても不思議で、毎日、形も色も変わってしまう。

銀の盆のようなときは、平たくて硬い。

黄色いぼんぼりのようなときは、ボールみたいによくはねる。

ぼやーっとしてるときは、ふわふわしすぎてて、触ってるのかよくわからなくなる。

オムライスみたいなときなんて、ほんとに甘いたまごの匂いがしてきたから、ケチャップをかけて食べてしまった。

 


食べてしまった。

 


そしたら、お月さまの声が聴こえてきた。

 


「誰も見てないんだもん。

 毎日、今日はどんなカッコをしていこうかなって、うんと頑張ってたんだけどさ。

誰も見てないから。

うーんと大きくなったら見てくれるかな?

すごーく赤くなったらびっくりして見ちゃうんじゃない?

ってさ。

ドロドロにとけたこともあったよ。

雲に隠れてチラチラしてみたり、

昼間のお化けになったこともあったけどさ。

誰も気づかないんだもん。

つまんなくってさ。

ここにいたら、きみが毎日、驚いてくれるもんだから楽しくて」

 


「でも、ぼく、食べちゃったよ」

 


「うん。美味しかった?」

 


「美味しかった」

 


「また、食べたい?」

 


「うーん。それもいいけど、

ぼくはまた、お月さまを眺めたい。

ぼくの部屋でもいいけどさ、空で跳ねるのとか見てみたいな」

 


すると、お月さまは嬉しそうに笑って、

 


「じゃ、見ててね!」

 


というと、ぼくの中で光だして、びゅーーーーんって!

飛び出していっちゃった。

 


ぼくも、いそいで外へ出ると空を見上げた。

 


お月さまは、空をぐるぐる駆けて、ぴょんぴょん飛び跳ねてた。

とっても楽しそうに。

やっぱ、ぼくの部屋じゃ小さすぎだと思ったよ。

 


お月さまは、ぼくから飛び出していくとき、ぼくの心にちょっと欠片をおいていった。

お月さまにも、ぼくの心がちょっとついてる。

だからかな、お月さまが空へ昇ると、ぼくにはわかるんだ。

お月さまも、必ずぼくを見つけて、ついてくるよ。

 


ほんとかな?

と思ったら、きみも、空を見上げてお月さまを探してみるといいよ。

変なお月さまが見られるかもしれない。

そうしたら、きみのところにも落ちてくるかもしれないよ。

寄り添うって簡単に言うけどさ

寄り添うと聞くと、どんな事を具体的に思い浮かべるだろう?

 

昔の私は、「気持ちを分かること」や「同じ気持ちになること」だと思ってた。

けど今は、「共に過ごせる場を創る」の方がしっくりくる。

 

 

あの誰かに分かって欲しくて堪らなかった時の寂しさは、結局、気持ちを分かろうとしてくれたり、同じ気持ちになってくれる人では癒されなかった。

私の場合だけど。

その時は嬉しいんだけど、そのうち重くなったり、傷つけあったり、結局は分かってないって気持ちが加速していくようで、寂しさは募るばかりだったなって思う。

いつも同じ気持ちにはなれなかったし、それは相手も同じことだったから。そして分かろうとしてもすべてを分かるわけでもなかったから。

 

私の気持ちに寄り添えるのは、私しかいなかった。

これ、寂しいように聞こえるけれど、私が私に寄り添えるようになったら、ほんと、嘘のようにそういう寂しさは溶けてしまった。

なくなったわけじゃないんだけど、今は愛しさに包まれている感じなんだ。

 

 

で、なぜ自分の気持ちに寄り添えるようになったのかっていったら、誰かと共に過ごせる場所があってそこに人がちゃんといたからなんだ。

強要するのでもされるのでもなく、誰かに居てほしい時はその場所があって、独りになりたい時はそっとしておいてくれる人達がいた。←私が拒絶していたんだなって、あの頃の数々を思い浮かべてそう思う。

 

不機嫌や悲しさや寂しさに囚われている人間に、あえて関わろうとはしないんだ。そういう居心地の良い人達は。

なぜならたぶん、彼らは、わからない気持ちに寄り添おうとしても傷つけるだけなことを知っているからなのかもしれない。

そっとしておいて欲しいときがあることを知っているからなのかもしれない。

 

一見、冷たいようにみえるけど。

無理に分かってもらおうとしない人を好み、無理に分かろうともしないから居心地が良かったりするんだろうなーって。

でも、それぞれに、分かるところは分かり合い、できるところで傍にいようとしてくれる。共に過ごそうとしてくれる。

大丈夫?ってそっと見守っていてくれたりしてるの。

優しいなって、私は思う。

 

ありがとうって、素直にそういう人達の好意を受け入れていくうちに、気持ちって分かって貰わなくても共に心地よく過ごすことはできるんだって、ちょっとづつだけど変わっていけたのは、そういう優しさがあることに気がつけたからだ。

 

それでもあの時はまだ、誰かに寂しさを分かって欲しいって思っていたから、分かってもらいたいなら分かってあげなくちゃって、人に無理して迎合するところが多かった。

無理してるのがバレないように無理してるみたいなとこもあって、強がっていたけどもういっぱいいっぱいで、そんな時、居たかったら居てもいいよって場所に、出逢えた。

そしてそこに集まる人達がいた。

 

話を聞いて貰ったわけじゃない。気持ちを分かって貰えたわけでもない。

だけど、気持ちを吐露なんてしなくても、居る場所があるだけでこんなに満足しちゃうもんなんだなって。

取り留めのないことをダラダラ話したり笑ったりする人達の声を聞きながら、そこで過ごすだけで癒されている自分に気がついていった。

 

以前の私は、関わった人達から欲しい言葉が返ってこないと、やっぱり話しても分かっては貰えないんだって卑屈になってた。それで、結局この人じゃなかったって、一方的に関係を絶ったり、勝手に腹を立てたり、自暴自棄に自分の人生を嘆いたりしてたこともあったんだけど。

 

そこは、関係したくなければ行かなくて良い所だった。行きたくなったときだけ顔を出しても、

「おお」

って、しばらくぶりなのに

「なんで来なかったの?」

とか聞かれることもなく、やっぱり居たかったら居てもいいよって感じで。

その場所はいつもそうやって私を迎えてくれた。

咎められることは何もなく、咎める人も誰もなく、だけど寂しくなるどころか、私という人間にとても無頓着だったことが、とても居心地が良かったんだ。

 

分かって欲しいなら、私から誰かをほんとうに分かってみよう。私がまず、人の欲しい言葉をあげられるようにならなきゃみたいにその頃はまだまだ思ってたとこがあったけど。

 

だけど。

私が必要とさえすれば。

必要とされる場所じゃなくて、自分からここにいたいなーって思える居場所があるってことが新鮮で嬉しいっていうのかな。

必要とされなくてもいいんだーっていう安堵感が心にぱあっと広がっていって、自分でビックリしたみたいなとこがあって。

だって、必要とされるから居てもいい場所ができるんだって、思い込んでいたから。

必要とされる自分を演じなくていい場所があるっていうのがね、心を解きほぐしてくれたんだと思う。

 

そこに集う人々は、ほんと、自由気ままでさ。

嫌いなら嫌い。好きなら好き。居たいなら居る。帰りたくなったら帰る。

遊びたかったら遊ぶし、寝たかったら寝るし、お腹すいたらご飯を食べる。

「お腹空いたな」

って誰かが言うと、

「俺もー」

って何人かが賛同して、腹が減った奴らだけラーメン食べに行ったりするの。

行きたくなかったら、行かなくてもよくて。

もう、そういうのがね。

堪らなく不思議で、堪らなく好きだった。

わかんない話とか平気でわかんないとかいうし、誰かが誰かに気を遣ってとかもなくて。

「俺あいつ嫌い」

って誰かが言っても、

「そうなの?」

「えー、あいつカッコいいじゃん」

「いや、あいつはカッコよくない!」

「なんだ、ゴリラのお前がオラウータンにライバル意識か」

「ばか、あいつのカッコよさは美しい森の人だ」

「だから、あいつはカッコよくない!」

「大丈夫。ゴリラのお前もカッコいいって」

って、茶化して笑って終わっちゃうの。

「オラとかタンとかウーさん、今度こっちに出てくるって」

って嬉しそうに話してる中で、

「えー、じゃ俺その日パス」

ってゴリラさんはほんとに顔出さなくてさ。

大丈夫なのかなって、私だけがハラハラしてて。

だけど、オラウータンが森に帰るとゴリラさんはいつものように顔出して、

「楽しかったからくれば良かったのに」

って言われても、

「俺はあいつ嫌いだって言ったろ」

って。他の皆は、

「ライバルだからな」

って笑ってるの。

「ライバルじゃねーしっ」

て怒ってるゴリラさんもなんか楽しそうにさ。

 

嫌いなのはしょうがないけど、それはそいつの問題であって、俺らは遊びたかったら遊ぶさってスタンスで、それをゴリラさんも認めてるっていうか、なんとも思ってないのが、当時の私には本当に衝撃的なくらい新鮮で楽しくて、そういうのいいなって思えたんだ。

 

気がついたら、分かって欲しいあまりに分かってあげなきゃって思ってた自分から、分からないものは無理に分かってあげなくてもいいんだなって思えるようになっていた。

そこにいる人達のまんまの相手がすっと入ってきて、ああ私もまんまでいいんだって解放されるような感覚を初めて味わった。

 

ふーん、そうなんだーって。そっかーって。

 

そしたら、自分の寂しさにも、憤りにも、憎しみにも、卑屈さにも、自分という人間に対しての諸々が、

ふーん、そっかー、そうなんだー

って。良くも悪くもなく、悲しかったねー、辛かったねー、よく頑張って、偉かったなー私って。

その、欲しかった言葉を自分にかけてあげられるようになってた。

それは、同じ気持ちになろうとしたり、わかってあげたりしようとして、無理に自分の気持ちを曲げなくても居心地は良いままでいられるんだと、あの場で遊びながら関わる人達が教えてくれたから。

むしろ気持ちを曲げてしまうことで、居心地の良さは失われていくんだと思うようにまでなれた。

 

そして、欲しかった言葉を的確に渡せるのは、他でもない私だったんだなーって。

渡せるようになったから気がついた。

 

 

だから、寄り添うって、無理に気持ちを分かろうとすることよりも、誰かが一緒に過ごしてくれる場所のある方が私は助かったし、癒されたし、学べることが多かった。

 

 

そんな経験から、私にとっての「寄り添う」は、共に過ごせる場を創ることになった。

居たかったら居られる場所。

必要とされる場所じゃなくて、必要とされなくても居たかったら居てもいい場所。

独りになりたかったらそれは構わない。

その時の気持ちで気兼ねなく居られるような場所があってこそ、そこに集まる人達と、一緒にご飯を食べたり、遊んだり、くだらないことでゲラゲラ笑えるようになっていく。

そしてやっとそこに、誰かの寄り添って欲しい何かへ「寄り添う」ことができるようになるんじゃないだろうか。

 

「寄り添う」って簡単に言うけどさ。

 

「高い壁を積み上げ続けたぼくの話」

無駄に高いプライドの壁が、空をあんなに高くさせて……すっかりぼくをひとりぼっちにしてしまった。

見上げる空は四角く小さい。

 


なんであんなに高くしてしまったのかって?

涙が溢れないようにだよ。

溢れようとするたびに、積み上げていったんだ。

あんなに高くしたのに、それでもぼくの涙は溢れ出ようとする。

困ったやつだ。

 


涙に浮かんでてっぺんまで登ったときに、すかさずまた一つ積み上げていくんだけどさ、これって結構な技術が必要なんだ。

そうして今日もまた一つ。

壁の上から外を見下ろしても、もうなにも見えなくなった。

無駄に高いプライドの壁は、空ばかりか、地上さえもぼくから遠ざけてしまった。

ぼくからなにも見えないように、下からだってぼくのこと、なんにも見えてやしないんだろうな。

「ざまあみろ」

と叫んだところで、届きやしない。

もう、ここにいることを覚えている人もいないかもしれない。

こんなところに人がいるなんて、考えたこともないのかもしれない。

ふふふ、そしたら外のやつら、ビックリするだろうな。

でもどうやって?誰が登ってくるって言うんだ?ぼくが降りるのか?

ふん!誰が。

今さらなんだよ。

ほら、こうやってまた一つ。

 


いつもは浮かびながら涙が引けるのを待つんだけど、今日は壁のてっぺんに腰をかけ足をぶらぶらさせていた。

なんにも見えない外じゃなくて、空ばかりを眺めてた。四角く切り取られたような小さな空じゃなくて、どこまでもどこまでも広い大きな空を。

この大きな空が、たまらなく不安だったときもあるんだけど、たまにはいいよね。

こういうの。

 


気がついたら、涙の水位はすっかり下がってしまってさ、真っ暗な穴になってやんの。

あいかわらず、外側は靄がかかってなんにも見えない。

詰んだな。

そう思った。

壁を積むだけ積んじゃって、ぼくの人生詰んじゃった。

間抜けすぎて笑える。

もう、どこにも行ける場所なんてなくてさ、この狭い狭い壁の上で、空ばかり見て過ごすしかないんだ。

「助けて」

と叫んだところで、無駄に高いプライドの壁が、ぼくの声をどこにも届かせない。

 


そこへ燕が一羽、ツイッと飛んできて、ぼくの壁に留まると羽根を休めた。

ずっとそこにいて欲しくて、ぼくは息を殺していたのに、燕は気づくことなく満足すると、またツイーと飛んでいってしまった。

燕の去った方へ目を向けると、翼のないぼくがどうしようもなく悲しくなった。

泣いてしまうと思ったけれど、ぼくにはもう、壁を積み上げる気力も残っていなかった。

ただただ今は、泣いてしまいたかったんだ。

 


溢れ出た涙は、積み上げた壁を崩しながら、いつまでもいつまでも流れ続けた。

逆らうことなくぼくも、いつまでもいつまでも流れ続けた。

気がつくと、平らな地面の上にいて、むくりと起き上がると、遠くの方にボロボロの高い塔のようなものが見えた。

行く当てもないから、塔まで歩いてみると、それこそ自分が今まで積み上げてきた、無駄に高いプライドの壁だった。

中で、泣いてはいけないと懸命に堰き止めてきたぼくがいないからか、塔の所々に穴が開き、あちこちから涙が噴き出している。

上の方からカラカラと崩れた壁の欠片が落ちてくる。

放っておいたら崩れてしまうだろうか。

ぼくはしばらく、塔の真下で、無駄に高かったプライドを外側から眺めていた。

中から見るのと外から見るのではこんなに違うものだろうか。それにしてもなんて脆そうにみえるんだろう。

泣いているから?

にしたって、こんなに危うそうに見えるものだろうか。

そうして、こんなところに人が閉じこもっているなんて、誰にも分かるわけないじゃないかと呆れた。

 


途端に、今まで気にもならなかった、塔の向こうに見える一面の野原が、どこまで続いているのかを無性に確認したくなった。

野原の向こうへ目を向けると、ぼくはずんずん歩き出した。見えないところへ向かって、何があるんだろうと想像することが、こんなに胸を膨らませるなんて知らなかった。

いや、知っていたけど忘れていたんだ。

あの、無駄に高かったプライドの壁が、野原のことも、ワクワクする気持ちも忘れさせていたのかもしれない。

振り返った塔は、ちょうど夕陽に沈んでいくところだった。

所々に空いた穴から光が放たれて、切り取られた影絵のように、それはそれでとても美しい光景だった。

それが最後だった。

なんにもない丘の上にぽつんと一つ立つ塔は、最期に残った恐竜みたいに空に向かって吠えると崩れていった。

 


塔から流れる涙は勢いを増し、ぼくより早く道を作って流れていった。

その隣をついていくように、ぼくはゆっくり歩いていった。

涙まわりのぬかるみに、小さな花が咲いているのを一つひとつ確認しながら、ぼくは今、歩いている。

「明日はきっと」

 「もう!嫌になるよ。どうして自分の体なのに言うこと聞いてくれないんだろう……!」

 「……ごめんね、ケビン」

 「ああ、ママ、そうじゃないんだよ!」

 「わかってる。でも、こういうとき、やっぱりどうしても思ってしまうの。神さまのこと」

 「神さま?」

 「……うん。ケビンを産んだのはママだから。そして、ママも、自分の体なのに思う通りにはいかないってこと。ケビンを産んだことを後悔しているわけではないのよ」

 「わかってる。でもママは、……ぼくと違って健康なのに、やっぱり思う通りに動いてくれないの?」

 「ケビン、健康ってきっと、魂のことよ。あなたの魂はうんと健康だわ。例えばそうね、足の指は全然動いてくれない。すね毛なんて生やそうと思ってないのに生えてくる。痩せたいと思うほど太っていく」

 「寝たくない時に限って眠くなるとか? 」

 「反対に、寝なきゃいけない時に限って目が冴えてしまうとか」

 「お腹はすいてるはずなのに、食べたくないとか」

 「それはママの料理が失敗した時ね、ケビンったら。反省します。それにしても、ちょっと考えただけでこんなにある。思う通りに体を動かせる方が奇跡に思えてくるわね。そういうとき、この体は借り物なんだって思うの」

 「だけど、借り物なら、もっと良いものがよかったよ……。神さまは意地悪だ!」

 「ほんとね。……ママも、もっと、声が綺麗だったらよかったのにって思うわ」

 「そんなことない。だってぼくは、ママのこもりうたが好きだもの」

 「ありがとう、ケビン。私も、ケビンがそのまま好きよ」

 「ぼくは、……、ぼくはやっぱり動いてくれない体が嫌いだ……。もっと思う通りになってくれたらよかったのに。他の子みたいに、走り回ったり、飛んだり跳ねたりしてみたかった……。ごめんね、ママ。ほんとに……責めてるんじゃないんだ……」

 「うん。わかってる。ママだって、もっと綺麗な声がほしいときは、誰を責めてるわけじゃないもの」

 「だけど、ママの声は素敵だよ、ほんとに。歌ってもらったら安心するし、ほんとに、ママの声はママの声じゃないとダメだと思う。ママじゃなくなっちゃうよ」

 「おんなじよ、ケビン。あなたがあなたの体じゃなかったら、きっとケビンではなくなってしまうんじゃないかしら」

 「そうだけどさ……」

 「……借り物の体なのに、その体をなくしたらケビンでなくなっちゃうっておかしなはなしよね。でも、体をなくしても魂さえなくさなかったら、ママはきっとどんなケビンだってケビンってわかるわ」

 「だけど、体がなくなったら、どうやってぼくのことを見分けるの? 」

 「触れたらわかるわ、これはケビンだ!って。ケビンはママの声が変わったら、ママのこと見分けられなくなる? 」

 「んー、わかんない。でも、あの歌が聞けなくなるのは嫌だな」

 「ママも、あなたがこの体を手放してしまったら悲しいわ」

 「わかってるけどさ……、でも、ほんとに、あとちょっとだけ、あそこにいきたいって思うほんの先にいくのがもっと上手くなれたらいいのに。……この体でいいからさ」

 「ほんとね。ママも、この声でいいから……この借り物の体でいいからもう少し上手く自分の体を使えるようになれたらいいのにと思うわ。それで、毎日、繰り返し歌うのよ」

 「そっか……! そうなんだね。借り物だから、上手くはまだ使えないけど、繰り返してたら少しはよくなる? 諦めなかったら? 」

 「明日はきっと、もっと上手くいくわ」

 「……うん……ママ、こもりうた歌って……」

 「あなたは生まれた

  この小さな体で

  あなたという魂が

  この体に宿り

  あなたは生まれた

 


  あなたは大きくなった

  この震える魂で

  あなたという体が

  この魂を育て

  あなたは大きくなった

 


 おやすみ、ぼうや

 明日はもっと

 

  あなたは生きた

  この体と魂で

  あなたという世界が

  この体と魂を生かし

  わたしを生かす

 


  おやすみ、魂

  明日はきっと」

 


 「……すー……すー」

 「おやすみ、ケビン。いい夢を」

永瀬清子「流れるように書けよ」を読んで

詩をかく日本の女の人は皆よい。

報われること少なくて

 


で書き出されるこの詩の一遍は

 


はげしすぎる野心ももたず

 


先生もなく弟子もなく

殆ど世に読んでくれる人さへなくて満足し

 


しかし全く竹林にゐるやうなものだ

 


とくる。

呼びかけられて、心が洗われるようだった。

けれど、なぜ女詩人だったのか。

報われることなく、弟子もなく、たいした野心もないままに、流れるように書いてきた人は男の中にもいるだろうに。

日本の、と区切るのだ。

すべての女の人ではない。

 


日本の女が居たんだとわかる。

日本の女という生き方や暮らし方があったのだ。

男が居て、野心を求める生き方があったのだ。

今はどうかとすると、

そんな女は居なくなった。

日本の女を捨てて、皆、男になった。

女の生き方は否定され、

より良き生き方一つを求めている。

ジェンダーフリーが叫ばれながら、暮らし方は勝ち負けになった。

けれど、多様性と言いながら、羨むのは人の土地。自身の土地は捨てて忘れる。

暮らし方を知らない、男ばかりになった。

 


腐葉土のない土地で、自身が腐葉土になるのは嫌だと

耕さず、打ち捨てられて

 


女の生き方、暮らし方のあった方が

まだ自由だったと思うのは勝手だろうか

 


女の生き方を嫌うばかりに

一つの生き方を否定すれば

そこで暮らした良きもの

稲の実り、畦の草花、辻に立つ桜の樹さえ

共に植えた苗の喜び、叱られた子供の泣き声、皆で見上げたあの空の蒼さえ

成り立たなかったものを

 


捨てるなら、女の生き方ではなく

暮らすなら、勝ち負けではなく

腐葉土のあるなしに関わらず

自身も腐葉土にいつかなる日まで

 


普段着のごとく書けよ

   流れるごとく書けよ

 

まるでみどりの房のなす樹々が

秋にたくさんの葉をふらすやうに

とどめなくふってその根を埋めるやうに

たくさんの可能がその下に眠るやうに。

 


何年も何年も

 


生きてる限りは

書いていきたい。

わたしが私に成るように

私がわたしに成るように

父と、「星の王子さま」

星の王子さま
サン・テグジュペリ
内藤濯
岩波書店

を無性に読みたくなって、この度、読み返してみた。

想い出が、ページを捲るごとに蘇ってきた。

 

ぞうを飲みこんだうわばみの絵を帽子だと思うくらいには大人で、何が書いてあるのかはさっぱりわからないくらいの子供だった頃、父の寝室にある本棚で出逢った本だった。


読んだ後、父に、「星の王子さまが読めたのか」と驚かれ、難しい言葉などひとつもないのに読めるに決まってるじゃんと言いのけた私をみて父は「そうか、そうか」と嬉しそうに笑っていた。

ちっとも読めていなかったのは、バレバレだったと思う。


当時は、うわばみの絵だとわからないのが悔しくて私はすでに子供じゃないんだと思ったり、着てる服とかで品定めをする大人じゃないことに安心したりして、この本は、ほんとうの子供つまり純粋な心を見極めるために書かれている気がしていた。
はだかの王様を見て「はだかだ!」と言える人になるよう、父にも求められているような気がして、とても座り心地が悪くなったっけ。


そのくせ「好きじゃない、わからない」と誰にも素直に言えない、ひとりぽっちの私だった。
「難船したあげく、いかだに乗って、大洋のまん中をただよっている人より、もっともっとひとりぽっち」だったサン・テグジュペリよりも、ひとりぽっちだったに違いない。


ご飯を食べさせるだけじゃなく愛情も行き渡っているかを気にかけてくれる親がいて、どちらがより優れているかを競える兄もいて、そんなんじゃダメだと多くの方法で教えてくれようとする先生もクラスメートもいて、暇な時だけ構ってくれる友達も幾人かいて、誰一人として私をひとりぽっちになどさせるつもりのない人々に囲まれたあげく、繋がり方のわからないひとりぽっちは、広大な宇宙に放り出されるよりもひとりぽっちに違いないと思う。


手を伸ばせばそこに人はいるのにひとりぽっちだったのだから。


「面白かった。すごく好き。うわばみの絵も、私はわかったよ」と嘘を言って誤魔化してわかったふりをする、ほんとうに欲しいものが何かも見えない、作中に出てくるつまらなくて面白くなくてそこらじゅうに蔓延っているように描かれた大人と変わらない、子供だった。


それでも、ずっと心に残っていた。
何が書いてあるのかさっぱりわからなかったのに、何か大切な、それも美しいものが書いてあることは当時の私にもわかったのだ。
特に、バラの話とキツネの話は好きだった。
何が、なんて説明できなくても心に残っていたのは、当時の私を戸惑わせたからだと思う。


読み返してみて驚いた。

だって、今の私が身につけた、人との繋がり方がそっと書いてあるんだもの。

きっと奥底にあり続けたこの本が、私に呼びかけていたのかもしれないと思った。

それは父の呼びかけであったかもしれないと、思った。


それだけじゃない。
この本は、童話だけども子供に向けて書かれたのではなく、かつて子供だった人へ向けて書かれたものだったことで、さっぱりわからなかった事柄や文脈や示唆されていることが様々に読みとれるようになっていた。
そうしてやっと、私は今、「かつて子供だった」ことを思い出せた次第だ。

子供だった人が大人になって、「かつて子供だった」ことを思い出せると読みとれる本だから、大人にもなっていなかった ただの子供の私には読めないところがたくさんあって当然だった。

 

父が「そうか、そうか」と笑っていたのは、自分の深く感銘を受けた本を、娘の私が手に取ったという以外には全く意のないところであったに違いない。

言葉にできない想いはたくさんたくさんあったのだと思う。けれど自分の「想い」は口ではなく行動で示すような人だった。

だからなおのこと、本を通して、伝わる何かに嬉しかったのかもしれない。

正しく、純粋でいて欲しいと強く願っていたのはわかっていた。父の想いを、わかっているつもりだった。

読み直すまでは。

この本が私にとって特別になるのは、父の寝室の書棚に秘められた本だったからだ。
父がこの本を読んで何を思ったのかはついに話せず終いだったけれども、父にとって、私の笑顔を見ることは、文中にある「砂漠の中で泉の水を見つけるのと同じだった」のだと、この度やっと、本を通して父から打ち明けられたような気がする。

そういえば、父は私が不機嫌な顔をしているといつも言っていたっけ。

「笑顔がいちばん可愛いのに」って。

私が、怖がっているときも、悲しみでいっぱいのときも、苦しさで歩みを止めてしまいそうなときも、大丈夫だよとふざけてみたり、抱っこしておんぶしてあやしてくれて、拳骨ひとつと少ない言葉で叱って励ましてくれた。

それでも私が笑顔をみせないと、傍で困ったようにして、よくそう言っていた。


おかげで座り心地が悪くなることはなくなったけれど、かわりにすっかり寂しくなった。
寂しくなると、王子さまは入り日を見たくなると言っていた。夜になったら星を眺めておくれよと、お願いされたっけ。

キツネは、何かが特別になるのはそれでひまつぶししたからだと教えてくれた。


真昼間の明るい空に、入り日を待ちながら満天の星を眺める。


「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているから」

という王子さまの声がして、ラピュタの「君をのせて」が頭に流れた。
「あの地平線 輝くのは あのどれかひとつに 君がいるから」


世界がいつでもどこでもたいていはとても美しく見えるのは、きっと、井戸もバラもひつじも王子さまも、飛行機で探索に出たまま戻らなかったサン・テグジュペリもこの物語を贈られたレオン・ウェルトも、どこかに隠されているからかもしれない。

私の父も。

たくさんのものを美しく見られるように、私の人生に隠していったのだ。


だから私も、私にとって、父の笑い顔はたくさんあるどれかひとつの特別な星であり、5億の鈴の音であり、金色の麦なのだと、遅ればせながら伝えたいと思った。

 

だからこれは、父への手紙です。

 

代わりに読んで下さったみなさま、ありがとうございました。

そういえば、サン・テグジュペリは、この本の最後で、星の王子さまが戻ってきたのがわかったら、手紙を書いてくださいとお願いしていました。

サン・テグジュペリにとっては、星の王子さまはレオン・ウェルトだったんだろうという気がします。

そうして私にとっての星の王子さまは、父だったんだろうと思うのです。