「初夢ならぬ、年末の夢」

 それは白昼夢だった。

 旦那と楽しく語らいながら自転車を走らせていると、突然、傍らにそいつがやってきた。
 「死神です」
と丁寧にお辞儀をする。
 旦那は気がついていない。
 私はすぐに、頭の中の妄想が始まったのだと思った。なぜなら、私は旦那と全く違う話で盛り上がっているのだから。
 「確かに、クリスマスに食べたローストポークは美味しかったね」
と旦那に答えつつ、(おいおい、私、大丈夫か?)と軽く頭を振った。死神と名乗る奴は気にする風でもなく、勝手に話を進めていく。
 「私のことは誰にも話せません。また、あなたをいつ連れて行くのかもお教えできません。やり残したことはございませんか?」
と言い終わると、静かな笑みを称えているばかりだった。
 少しこの妄想に腹が立ったので、旦那に話して終わらせてやろうと思った。
 「世間じゃチキンなんだけどな。さすがに食べすぎたから、正月に肉はいらないな」
と旦那はまだローストビーフならぬローストポークの話をしている。私はおもむろに切り出した。
 「全然話は変わるんだけど、もし突然、……突然……。思いついた話があるんだけどさ、奇妙な奴が突然……」
 言葉が継げなくなった。
 催眠術にかけられた人をテレビで観たことがある。
 「あなたは今からトマトと言えなくなります」
と術師にひゅっと言葉を吸い取られる仕草をされた後、
 「これは何ですか?」
とトマトを指されても、口を開けるばかりでその先が出てこない。
 そんな状態だった。
 「え? なに」
と、旦那は振り返った。
 私は自分の妄想した死神と名乗る奴に、つまり自分で自分に術をかけてしまったようだ。自分の妄想を睨み据えながら、
 「吸血鬼! 」
と叫んでみた。言えた。旦那はわけがわからない顔で、
 「は? 」
と問うてくる。
 「だから〜、突然、私は吸血鬼ですって言う奴が現れたら信じる? 」
 誤魔化すように次穂した。この手の話は旦那も好きだから、わけなく誤魔化せたようだった。旦那は、肉の話など忘れて答える。
 「信じない」
 「だよね〜。じゃぁ、悪魔だったら? 」
 「なんか証明してみせてよっていう」
 私はこれみよがしに、死神と名乗る奴へと視線を投げた。奴は静かに笑っているままだ。
 すると私は勝手にこんなことを旦那に話していた。
 「証明はできませんっていうの。でも、オーラが違う」
 私は、はっとして死神と名乗る奴をみた。しっかりと。
 「オーラ? どんな格好をしているの? 」
と旦那が聞く。
 私は、懸命に捉えようとした。けれど、言葉にしようとすると逃げていくようだった。仕方がないから、
 「んー。世間一般の格好はしていないけど、品がいいのだけは解る。だいたい、男なのか女なのか、子供なのか老人なのかもわかんない。ジェントルマン、かな」
と言うと、死神は一礼した。そして、
 「やり残したことはございませんか? 」
ともう一度、私に聞いた。やっぱり品がいい。
 旦那は、
 「なんだ、それ」
と言うと、
 「願いは叶えてくれるの? 」
と聞いてきた。もちろん私になのだが、死神がこくりと頷いた。私は、
 「叶えてくれるけど、いつかはわからないってさ」
と言えば、旦那はまた、
 「なんだ、それ」
と言った。
私は、観念したように、
 「でも、本物だって解るんだよ」
と答えた。
 死神はまた一礼した。
 さっきのは「お褒め頂きありがとうございます」で、今のは「解って下さって幸いです」と言われたようだった。ふと、信じないままの人もいるのだろうか、とか、私には仕立てのいい服を纏っているようにみえるだけで他の人には違うようにみえたりするのかもなと、とりとめのないことが次々に頭を過ぎていった。
 「まず、願いを無限に叶えてもらうようにするじゃん」
と、旦那の声で我に返る。
 「ひとつだけね」
と答えた私に、
 「え〜、なんでダメなんだよ」
と、旦那は文句をつけた。いつもの「もしも〇〇だったら」遊びのひとつだと思っているのだから、それも当然だ。そんな旦那の背を見ながら、私はやり残したことについて考えていた。
 いつかはわからないと言う。
 今、この瞬間に、自転車を滑らせて死ぬのかもしれないと思ったら、慎重になった。スピードがゆるくなり、旦那の声がいつの間にか聞こえないほど離れていた。それでも慎重に、自転車を降りて横断歩道を渡る。そんなことをしてる間に振り返りもせず旦那は行ってしまい、その先の角を曲がったのだろう、姿も見えなくなってしまった。
 私は少しスピードを上げながら、注意だけは怠らずに角を曲がると、そこに旦那が待っていた。いつもなら置いていくなんてひどいと文句を言うところなのだけど、口から出たのは、
 「ごめんごめん、横断歩道を使ったものだから。待たせちゃったね」
だった。
 旦那は、笑って「いいよ」と言った。
 私は死神に言った。
 「ちゃんとありがとうって伝えたい」
 すると旦那は、
 「伝わってるよ」
と言い、死神は、
 「承りました」
と言うと、すぅっと去っていった。
 不思議な、本当に奇妙な出来事だった。

 

 夜、布団に入り、昼間のことを思い返した。あれは、やっぱり私の妄想にすぎないことだったのだろう。ちゃんと「ありがとう」が言えるようになりたいという、私の願望の現れだ。
 「ありがとう」を伝えることは難しい。それは、言葉ではないからだ。
 あの死神が一礼をしただけで、言葉なく想いを伝えたように、ありがとうは細々とした日常に、仕事に、動作にある。
 まめまめしく働きたいなと、だから思った。「ありがとう」を伝えるられるように。
 私の今年の抱負である。
 そして、ちゃんと死ぬ。それまで、死神は待っていてくれるだろう。

「距離感」

 

距離感はヒトによる

1ミリの隙間もなくべったりくっついて、突然300メートルダッシュして、1メートルのところで座って待ってるのが好きな子

とにかく膝の上が好きな子

頭の上?
もありですか


距離感はモノにもある

中間を持つ方が使いやすいモノ

手元を持つのが使いやすいモノ

なるべく遠く離れた方が使いやすいモノ


距離感はモノによる

1メートル離れて観た方が一番キレイにみえるモノ

1キロメートル離れて観た方が一番キレイにみえるモノ

近づけるだけ近づいてようやくみえるモノ

離れているからみえるモノ


わたしの距離感は、どこだろう
相手次第のわたし次第
わたし次第の相手次第
互いに
少しづつ
見つけていけたらいいね

わたしの 「雨ニモマケズ」

にほんごであそぼ

のワンコーナーに、わたしの「雨ニモマケズ」というのがあった。

私も真似をしたくなって、勢いで書いてみた。

私の「ナリタイ」自分がそこにはいた。

これを読んだ人も、遊びのつもりでやってみたら、案外そこに「ナリタイ」自分がいるかもしれない。

 

わたしの
雨ニモマケズ

雨にも悦び
風心地好く
雪にも
夏の暑さにも悦びを見いだせる
健やかな心をもち

無理はなく

怒る時はしっかりと怒り
楽しい時はうんと楽しみ
悲しい時は涙を流し
嬉しい時は笑っている

その日に食べたいものを作り
食べられる適量の
美味しい時を逃さずに食べ

あらゆることを
まずは自分で考え
よく見聞きし
わからないことはわからないと言う
学ぶ心を忘れず

森の奥の小道の先の青い屋根の家に住み
東に行きたければ行って
月が昇るのに心打たれ
西へ行きたければ行って
日が沈むのに心震わせ
南に行きたければ行って
変わりゆく空に心躍らせ
北へ行きたければ行って
鳥の渡りくるを心待つ

いつの時も自分にできることを見失わず
どんな時もできることを精一杯に

みんなに怠け者とよばれ

ホメラレモセズ
クニモサレズ

知らずにみなと笑っている
知らずに種が撒かれている
知らずに芽が育っていく

サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ

 

ある月夜の晩に

 むか〜しむかし。
 わたしは、自分はひとつだと思っていました。綺麗だと思っていたのです。体ではなく、内面が。
 そうしてある日、醜く汚いドロドロしたものを見つけて、絶望したのです。わたしはすっかり、その汚いドロドロした内面が自分の本質なのだと思い込んでしまいました。気がつかなかっただけなのだ。見たくなかっただけなのだと。
 そんな時、空の闇に消えてしまいたい。溶けてしまいたいと願ったのです。
 見上げた夜空にほっそりと、銀色に光るお月様が顔を出しました。お月様はにぃっと笑って、ゆっくりと降りてきました。
 わたしの願いが叶ったのだ。お月様の細い細い先っぽが私の体を貫いた時、この黒いドロドロが噴き出してわたしは闇夜に溶けだすのだ。そう思ったのです。
 その時、わたしの姿がありありと映し出されました。それは綺麗でもなく汚くもありませんでした。そのままのわたしでした。体も含めて、影さえも、わたしはわたしでしかなかったのです。
 お月様はにぃっと笑ったまま、ビルの谷間に静かに潜っていきました。
 それからは、わたしとして生きています。
 輝く太陽のもと、青空をみたら青く、はらはらと舞う桜をみたら桜色に、萌ゆる新緑をみたらあらゆる翠に、そぼ降る雨の紫陽花をみたら青から紫へ、黄金色の稲穂をみたら金色に、山の裾野が変わるのをみたら黄色から赤へ、しんしんと雪の降るのをみたら白く、光に映し出されたままに生きています。
 静かに光る月のもとでは、映し出されることのない影も含めて、わたしはわたしとして生きています。

「何か」とは何か

何かがあると思った。
自然には、何か普遍になるような、何かがある。
その時には既に神という概念があり、様々な物語が伝えられていた。が、神はひとつではなかった。
そこへ、普遍となる何かと神が結びつき、社会はその頃すでに誰かが支配する形態を取り始めていて、一神教が生まれたのだとしたら。物語とも結びついて、人々がより具象化しやすくなる。
徐々にゆっくりと、その具象化された物語に、自らの考えをすり合わせようとしている。
そんな時、また、その方法では「何か」にたどり着くことはできないと言い始める人がいて、「何か」とは「何か」について思考を巡らし、自然を観察し、あらゆることを分類し、分析が始まる。
人を、つまりは自分をも、思考し観察し分類し分析するようになり、自らの中にそれぞれの真理を打ち立てる。
それが書物として残る。
その時々の賢いとよばれた人の考えを後の人がまた学び、その自らの中に新たな真理を打ち立てる。
繰り返され、積み上げてきた。

自らの中に真理を打ち立てた人は、それを他人へ伝える時に、自らの言葉を使う。
この自らの「言葉」と、他人が理解する「言葉」が違うことに気がついた人々によって、「言葉とは何か」についての議論が始まったのではない。

西洋の場合は、まず、「何か」を「神」とした。神への道があり、その神への道を指し示すものが教典に書かれた神の言葉だ。
そしてまず、「神」そのものの捉え方について議論がされた。神はひたすら信じるべきものなのか、考えるべきものなのか。
そこで、神の「言葉」を真として、これまでに筋道立てて考えられてきた「言葉」には、矛盾があるのかないのかを検討しはじめた。(「何か」が先にあるはずなのに、「神」が先であると考えたのだ。そうすると、神とは「目標」であるといえる。そこに至る「見通し」が真理とされた。目標に向かって真理を探求しているのに、その目標自体が既に真理として存在していれば、純粋な探求とはならない。その道にたどり着きそうもない真理は捨てられる。いずれは、真理は既に存在しているのだから探求自体がばからしくなる。信じれば救われる世界となる)。
そうして、神の「言葉」と筋道立てた「言葉」は矛盾しない、となり、思考し観察し分類し分析することはむしろ「神」をより知ることのできる手立てだとした。
そして、「神は存在するのか」から問い始める。(「神」とはもともとが「何か」であり、まずはその「何か」は存在するのかと問いはじめたともいえる)。
神つまり「何か」はあると信じることが真理探求の前提とした。(それはそうだろう。「何か」があると思わなかったら、探求自体がはじまらない)。
それにより、信じることと、考えることを分けての探求がはじまる。
そうして「普遍は存在するか」の問いが議論された。この過程で、実在、存在、唯名、概念、記号、認識、意識など、「言葉」とは何かが問われはじめる。(私にとっては、「何か」はあると思いたい。そして、「何か」とは何かを常に問うているのだから、この言葉とは何かという問いにはあまり興味がわかない。なんでもいい。言葉は記号で、世界に現実として在る物が実在で、私の頭にあるものは概念として存在している。だから「何か」も存在している。が、ここで存在してしまうと、それこそ純粋な探求にはならなくなるので、存在はしているが概念のないものになる)。

 

とりあえず、ルネサンスに入るまでの思想の流れを追いながら、自分なりの感想を記した。

そして私は、「何か」があるとは思うが、世間一般の神は信じていない。

真理はその「何か」を求める中で顕になる。つまり、道程が「真理」と考える。

私の道程にある「真理」と、他の人がいう「真理」が一になることはないが、共通項はあるだろう。

そして、その「真理」は、自らに問わずして得られるものではないと考える。

くまの子ちゃんのセーター

 新しい考えを手に入れるには、古い考えを一度捨て去り、新古を織り成す必要があります。

 では、お話のはじまりです。


 お母さんは、くまの子ちゃんが生まれたときから、いつもすてきなようふくを編んでくれていました。そしてそれはいつでも、くまの子ちゃんにぴったりなのでした。
 ある日、お母さんがいいました。
 「寒くなってきたから、あたたかいセーターを編んであげましたよ」
 さっそく、いつものようにくまの子ちゃんが着てみると、いつも以上にすてきにみえるようでした。
 「最高だわ! 」
 そう感じると、いつもはそんなことを思わないのに、だれかに自慢したくなりました。くまの子ちゃんはお外に走っていきました。

 くまの子ちゃんは仲良しのひつじさんに会うと、さっそく見せびらかすように、こう言いました。
 「ほら、すてきでしょ。」
 すると、ひつじさんは鼻で笑うようにいいました。
 「わたしのほうがすてきだわ。くまの子ちゃんのは黒くてごわごわ。わたしのは、白くてふんわり。」
 くまの子ちゃんは、なんだか急にみすぼらしくなった気がしました。
 今までなら、誰かにそんなことを言われても
 「そんなことないわ」
と気にせずにいられたのに、とたんに恥ずかしいような気持ちになり、ひつじさんがとてもうらやましくなったのです。
 なぜでしょうね。

 おうちに帰ると、くまの子ちゃんは お母さんにいいました。
 「いつも真っ黒ばっかり。ごわごわで、みすぼらしくてもういや。わたしも真っ白なふわふわのひつじのセーターがほしい! 」
 お母さんは、いつもしているようにくまの子ちゃんをお膝に乗せようとしましたが、くまの子ちゃんのお尻は半分はみ出ていました。
 「これは母さんの毛で編んだのよ。くまの子ちゃんにぴったり合うように。ひつじさんのセーターもやっぱりひつじさんのお母さまが編まれたものなのよ。それに、第一ひつじの毛糸がうちにはないわ」
 あきらめきれないくまの子ちゃんはお母さんの膝から落ちそうになりながらいいました。
「じゃぁ、ひつじの毛糸があったら編んでくれる? 」
 お母さんはくまの子ちゃんを落とさないように、きゅっと抱きしめながらいいました。
 「それでも やっぱり母さんには編めないわ。母さんはくまだから、ひつじのセーターは知らないのよ」
 くまの子ちゃんは お母さんの膝がきゅうくつになってきて、うでをほどきながらこう叫びました。
 「そんなこと、やってみなくちゃ わからないわっ! 」
 とうとうお膝から飛びだしたくまの子ちゃんは、ほほをぷっとふくらませると、お外へかけていってしまいました。

 くまの子ちゃんは、そのままのいきおいでひつじさんのおうちに向かいました。
 ドアの前で、バクバクする心をおちつかせようと大きく深呼吸をしてから、ノックしました。
 それでも少し乱暴な音がしました。
 「あら、くまの子ちゃん。どうしたの? 」
 「あのね、ひつじの毛糸が欲しいんだけど」
 ひつじさんは、かすかに眉をひそめて、
 「それなら街へ行ってみたら? 」
と、答えました。

 くまの子ちゃんはいわれたとおりに街へいきました。そこで、お母さんの編んでくれたセーターと交換して、ひつじの毛糸を手に入れることができました。
 帰り道は、お母さんの編んでくれたセーターがなかったので、とても寒いおもいをしましたが、ひつじの毛糸を手に入れたくまの子ちゃんは、ほこらしい気持ちでいっぱいでした。

 おうちに帰ると、さっそくお母さんにみせました。手はかじかんで、鼻の頭とほっぺは真っ赤でした。
 でも、目をキラキラさせながら、ひつじの毛糸をお母さんに渡しました。
「編んでくれるでしょう? 」
 お母さんはなんにも言わずに、くまの子ちゃんを抱きしめると、あたたかいお風呂に入れてあたたかい布団にくるめて、
 「おやすみ」
といいました。

 次の日の朝。
 目を覚ましたくまの子ちゃんは、お母さんのところへとんでいき、
 「わたしのセーターはもうできた? 」
と聞きました。
 お母さんは、首をふりふりいいました。
「母さんにはとても無理だわ。母さんはくまだもの。ひつじのセーターは知らないの」
 かなしそうにお母さんは昨日渡されたひつじの毛糸をくまの子ちゃんに返しました。
 くまの子ちゃんもやっぱりかなしそうにそれをうけとると、力なくつぶやきました。
 「やってみなくちゃわからないわ。」

 くまの子ちゃんはとぼとぼと歩いています。
 今日は、お母さんが以前に編んでくれたセーターを着ていました。前はぴったりですてきだったはずなのに、サイズが合わないようでみっともない感じがするのでした。
 出かける前に、なんどもなんども鏡をみては見栄えをよくしようとあれこれ工夫をしたのですが、とうとうあきらめました。出かけるのをやめようかとも思いました。
 それではひつじのセーターもあきらめなくてはなりません。
 だから、なるべく誰にも会わないように、くまの子ちゃんはうつむきながら、ひつじさんの家へと歩いていきました。
 ひつじさんのおうちまでくると、知らずにため息をひとつ、ついていました。
 ノックも、ひかえめでした。
 「こんにちは、ひつじさん」
 「あなた、だれ? 」
 「あの、あの、わたし…くまの子です」
 ひつじさんは目をまん丸にして驚いた様子で、こう言いました。
 「ごめんね。いつもと違うから気がつかなかった。」
 そうして上から下までくまの子ちゃんを眺め回すと、ちょっと息を吸ってから、とても柔らかい声で、
 「何か私で相談にのれるかな?とにかく入ってゆっくりしてって。」
と、くまの子ちゃんを家の中へ招き入れました。

 ほっとしたくまの子ちゃんは、なにもかものいきさつをひつじさんに話しました。
 ひつじさんも、なにもかものいきさつをただ黙って聞いていました。
 途中、小さく、「そうだったの?」と驚いたり、「それでそれで」と納得したようにうんうんと頷いたり、「大変だったんだね」とくまの子ちゃんの背を撫でたりして、最後は「任せておいて」と、くまの子ちゃんの手をとって力強く頷いてくれました。
 それから、ひつじさんは自分のお母さんにお願いして、「ひつじの毛で編むセーターのあれこれ」という本を貸してあげることにしました。
 これは、ひつじさんの家に伝わる大切な大切な本です。昔のひつじが、自分に似合うセーターをどうすれば上手に編めるのかを丁寧に書いた本でした。
 くまの子ちゃんは、ひつじさんとひつじさんのお母さんに、
 「ありがとう」
とお礼をいって帰りました。

 さっそく、くまの子ちゃんは本に首っ引きでセーターを編みはじめました。
 何日も何日もかかりました。
 投げ出して、ふて寝をした日もありました。泣き出して、お母さんに慰めてもらった日もありました。夜ふかしをして編み目を間違え、発狂しながらやり直したこともありました。
 そうして、やっとこの朝できあがりました。
 くまの子ちゃんは、できあがったセーターを、まずはお母さんにみせました。
 「よくがんばったわね」
とお母さんは寂しそうに微笑みました。
 最近は、いつでも寂しそうなのです。
 くまの子ちゃんはそんなお母さんに気がつくことなく、
 「ひつじさんにみせてくるわ」
と喜び勇んで出かけていきました。

 ひつじのセーターを着たくまの子ちゃんをみて、ひつじさんは思いました。
 (似合わない)
 だけど、にっこり笑ってこういいました。
 「すてき。白くてふんわり」
 くまの子ちゃんは鼻を膨らませていいました。
 「ありがとう。あなたのセーターもとってもすてきよ」
 そういわれたひつじさんは、こんなへんてこりんな子と一緒にされたくないと思いました。だからつい言ってしまいました。
 「あたりまえじゃない。だってわたしはひつじだもの」
 くまの子ちゃんが雷に打たれたような顔をしました。そして聞きました。
 「似合わない? 」
 しまったと思ったひつじさんは、慌てて言いました。
 「似合うよ。くまにしては」
 ますます青ざめていくくまの子ちゃんをみて、ひつじさんはあたふたとまくし立てました。
 「あ、ほら、白が黒に映えるっていうか、でも遠くからみたらひつじにみえるかも。あっ。近くからみたらもちろんくまなんだからくまにみえるというか、えっと、ね、毛糸がやっぱりすてき。きっと誰が着てもすてきだけど、ひつじじゃないんだもの。ひつじじゃないのにこんなにすてきにみえるのは、その、そういえば、貸した本は役にたった?」
 ひつじさんがいいおわらないうちに、くまの子ちゃんはかけていってしまいました。

 くまの子ちゃんは、かけてかけてかけて、藪を抜け川をこえ岩山の上に生えている一本ブナによじ登りました。
 月がブナの木に挨拶をするためにのぼってきます。
 その光に照らされて、くまの子ちゃんは自分がボロボロのペシャンコのドロドロなセーターを着ていることに気がつきました。
ふんわりしていたセーターは、藪を抜けた時にひっかけてボロボロになり、そのまま川に入ったのでペシャンコになり、岩山をよじ登る時にこすれて汚れてしまったのでしょう。
 朝にはふんわり白かったセーターのおもかげはどこにもありません。くまの子ちゃんは、そんなセーターにどこかほっとしながらお月様にききました。
 「わたしはひつじになりたかったのかな? 」
 お月様は笑っています。
 「ばかだなぁ」
 くまの子ちゃんも笑ってしまいました。くすくすとお月様と一緒に笑って、
 「さようなら」
と帰りました。

 帰ってきたくまの子ちゃんを、お母さんはしっかりと抱きしめて、あたたかいスープを飲ませてくれました。
 それはお月様のような優しい色合いのスープでした。心まであったかくなったくまの子ちゃんは、まだ着ていたひつじのセーターを脱ぐといいました。

  「お母さん、ごめんなさい。このセーターはもういらないわ。だから、明日からはくまのセーターを教えてね。自分で編めるようになりたいの」
 お母さんは、すっかり大きくなったくまの子ちゃんにキスをしました。
 そうしてやっぱり寂しそうに微笑みました。
 やさしい、やさしい、笑顔でした。

 ひつじのセーターは、くまの子ちゃんのお母さんがきれいに洗ってくれました。もとのようにふんわりにはなりましたが、ちょっと縮んだようでした。
 それを、くまの子ちゃんは、全部ほどいて毛糸に戻してしまいました。ほんの少しもったいない気もしましたが、それ以上にさっぱりしました。

 いまではすっかり、くまの子ちゃんはセーターを編むのが上手になりました。
 あまり上手に編むので、他のくまからも頼まれるほどです。
 でも、ひつじのセーターはもう編みません。
くまだけです。
 それとね、くまの子ちゃんのセーターは、胸のところが白い毛で編まれています。月のような白い模様に。
 それが、誰にも真似できない、くまの子ちゃんのセーターです。


 お話しおしまい。


 あれからひつじさんとはどうなったのか、ですって?
 大丈夫。二人は今でも仲良しですよ。

 かけ出していってしまったくまの子ちゃんが心配になって、ひつじさんの方から訪ねてきました。その時はくまの子ちゃんも、まだ話せる気にはならず、黙っていました。
 「なんだかごめんね」
といって、ひつじさんはすごすごと帰っていきました。
 本を借りっぱなしにしていたくまの子ちゃんは、それでも返さなくてはと、だいぶ時間がたってからひつじさんを訪ねていきました。
 最初はもじもじと、しまいにはお互いに、

 「ありがとう」
 「ごめんね」
といって、すっかり元の仲良しに戻りました。

 ひつじさんは、なんだか前より素敵になったくまの子ちゃんが悔しくて、今は懸命に自分で自分のセーターを編めるように頑張っている最中です。
 くまの子ちゃんはそんなひつじさんを、やさしく、時には喧嘩をしながら励ましています。
 恨んだこともあったけど、あの時本音をもらしてくれたひつじさんのおかげで気がつくことができたんですもの。
 それをちゃあんとね、くまの子ちゃんはわかっているみたいです。


 ほんとに、おしまい。

世界はここにある

世界はここにある。
私はここにいる。
どんなに知識をかき集めても、私の頭で理解できることには限度がある。諦める訳では無いが、日々を生きていく上で、知識は日々増大していくのだから、私がそこに追いつくことはないだろう。だから、私がはっきりと確信し、自覚できることは「世界がある」ことと「私がいる」これだけだ。
誰かが見ている夢かもしれない。誰かの中にある意識の一つにすぎないかもしれない。それでも、私の意識が続いているうちは、私はここにいるし、世界はあるのだ。
わかるうちの中で、私は、私の真実を打ち立てようと思う。
世界には私だけではなく、約70億人の人が住んでいるという。そんな数字はただの書き換えられていく知識にすぎない。私が生まれて此の方、私の記憶にある人達が私にとっての他人である。触れて確認はできるが、その人達の思考を覗きみることは叶わない。せいぜい、共に過ごした日々の断片でしかない。そしてその人達はその人達で、それぞれにそれぞれの理を持って過ごしている。その証明は、いつでも私にはない想定外の考えを私に提示することで、私の妄想によるものではないといえる。
そういう意味でも、私の真実が誰かの真実になることはないと思う。それでも、私は自分のわかることの精一杯で、自分にとっての真実が打ち立てられればと願う。
ソクラテスはいう。「いくつかの基準は絶対で、いつでもどこでも当てはまる」と。私は、基準に絶対などなくて、いつでも社会に内包されたものだと考える。だからまずは対比しながら、本当に「いくつかの基準は絶対で、いつでもどこでも当てはまる」のかを検討していく。
その前に私の考える「絶対」について書いておこう。
私の「絶対」は、繋がる生命においては絶対だと考えている。生命を「意思」と置き換えてもいい。
宇宙の始まりを考える時、デモクリトスがいうように、無からは何も生まれない、何もなくならないと私も思う。分割できる最小がどこにあるのかもわからないままだが、最小はある。例え0に近い最小でも、値が0になることはない。バラバラになった先で、何が起こるのか。「繋がる」のだ。物質が意思を持って繋がる。デモクリトスは、魂の原子があると考えたが、私は意思(もしくは感情)も光のような物質として存在するのだと考える。
神社や神殿など、多くの祈りが捧げられてきた場所で何かを感じることがある。大切にされた家や物にも、何かを感じることがある。別の物質として意思もしくは感情が存在していると考えれば、そうした事象から、そう考える方が理に適う。
この、「意思」そのものが生命を生む。意思は、「繋がる」と「生きる」しかないとしたら。もしくは、生きる意思に動くと繋がり、死ぬ意思になると離れるのか。逆もまた然りで、繋がる意志が生きるになり、離れる意思になると死ぬのか。これはまだ考える余地があるものだ。
そして、この意思によって、宇宙は収縮と膨張を繰り返す。何と何が繋がるのかはその時の意思次第なのだから、その時、その時で未来は永劫に変わり続ける。しかし、この意思や最小の原子は永遠に残り続ける。
絶対があるのだとしたら、この「意思」だと考える。(意思を「神」に置き換えてもいい。言葉はわかりやすさの説明でしかないのだから、その時、その時代、その人の一番解釈しやすい言葉を当てはめればいい。言葉の向こうにある概念さえ理解されるなら記号は何でも構わないのだ。)
ソクラテスへ話を戻そう。
感覚が生きるための正しさを示すとしたら、理性は社会で生きるための正しさを示す。
なぜこんなことを考えたのか。
赤ん坊はまだ理性を知らないと思えるからだ。にも関わらず、生きる上において正しい方へ、生き残るための方法を自らとるように思う。まだ理性が発達していない人間が、すべてにおいて間違うわけではないのは、感覚が、生きるための正しさを補っているからではないかと考えたのだ。
では、理性でいう正しさが求められるのはどこでかと問えば、社会においてだ。この、社会で生きていくための正しさに、絶対いつでもどこでも当てはまる何かを想定しても、その社会が求める正しさはその社会によるのだから、やはり理性における正しさは求められない。
絶対いつでもどこでも当てはまる正しさは個の感覚にあり、理性が発達するほど社会に依っていくのだから、プタゴラスの「正しいに絶対的な基準などない」とする考えも、ソクラテスの「いくつかの基準は本当に絶対でどこでも当てはまる」とした考えにも肯ける。プタゴラスのいう「絶対的な基準がない」正しさは理性にあり、ソクラテスのいう「絶対でどこでも当てはまる」正しさは感覚にある。
理性とは、感覚によるものを言語化していく過程で養われる。そして理性とは、言語化されることにより世代を超えて「確かな知」として蓄積されていくものだから、人の命と文明が続く限り残り続けるものだ。感覚は個の肉体に付随するものであるから、形を変えて分散していく。だからおよそ人の感情や想いや感覚の衰退は、多少の違いこそあれ似たり寄ったりなのだ。意思は、散り散りになった物質に付随していくのだろう。
私の考える「正しさの性質」はこうだ。
片側に「生かす」があって、片側に「殺す」があると想定する。ベクトルでいえばどちらに向かって動くエネルギーなのか、であり、その方向によって正しいのか正しくないのかを感じとる。
それぞれの正しさは複素数のような盤面にあり、それぞれの点で自由にそのエネルギーを発している。「生かす」と「殺す」と書いたが、「光」と「闇」、「喜び」と「怒り」、「生」と「死」でもいいだろう。そのエネルギーがどんなものであれ、恨みや妬みや憎悪であろうが、生かす方向にベクトルが動いたなら人は正しいと認識するのではないか。
ソクラテスはさらにいう。「正しい認識は正しい行いにつながる。間違ったことをするのは、それがあまりいいことではないと知らなかったからであり、もっとよく知ろうとすることは大切である。頭をはたらかせる能力は自然に備わったものであるのだから、人は理性(頭脳)を使えば真実を理解できる。その真実は自分の中から取り出されるものであり、自分の中から生まれた知だけが本当の理解である。」
個々の真実は、きっとソクラテスのいうように、それぞれがそれぞれに導き出すものなのだろう。導き出されたその知恵により、現在の社会が成り立っている。
より知りたいとする心は正しい。
理性を用いて考えることは正しい。
感覚からその理性を用いて言葉にできた時、より理解は深まるのだろう。そして共有することにより、社会はより正しい方向へと進むに違いない。