独りにみえて、独りじゃないよ

‪小学2・3年生の頃、時間がよくわからなかった。‬
‪「なぜ、今日が昨日になって、昨日になる今日が明日にもなるの? 」‬
‪曜日も、

「なんで、今日が火曜日なの? 水曜日になることもあるのに?? 」

と、なぜ色々なことが既に決まってしまっているんだろうと、不思議で不思議で仕方がなかった。

目安でしかないことを知らなかったから。

まるで、同じではないものを同じにして、同じだと思うものを別にしているようにみえていた。

だぁれも、分類に必要な視点を教えてくれる人はいなかった。

そしてその視点を教えてくれることがあっても、それはよくわからない誰かのものであったから、理解し難いものだったのは当然である。


たどたどしい‪口調でそれを、親や兄に懸命に説明しようとしても、

「またおかしなことを言い出した」

って笑うばかりで。

なぜ周りの人は不思議にならず、「そうだ」と理解してるんだろう?

聞いても答えてくれないし、返ってくる答えは全部、そういうことじゃないものばかりだったから、さらに不思議だった。


‪「なぜ勉強するの?」って問いに、「役に立つから」って答えるのと同じくらいのとんちんかんで素っ頓狂な答えなんだよ。‬


‪本当によくわからなかったなぁ。‬
‪私の世界に必要のないものは「知っておくべき」というのに、私の知りたいことには誰一人と応えてくれなかった。
‪私の心にある本質をわかろうとする人はいなかった。そして悲しいかな、私も喋れなかった。‬

 

‪みーんな頭が悪いのかと思っていたら、頭が悪いのは私だという。‬
‪ビックリ!(笑)‬
‪今はわかるんだよ。通り一般の価値観があって、物の把握の仕様というのもあって、それが楽だから大多数は従ってる。個々では疑問に思っていても。

 

自分が生きていくのに必要な衣食住を総て一人だけで賄おうとするのは大変だろう。それと同じで、総ての言葉や総ての物を一人だけで分類するのは大変だもの。先人の智慧を借りられるのは大変に有り難い。


でも‪私の場合は、わかることがないのに、同じも違うも分類などできず、判断できないから従えないに過ぎなかった。‬

毎回、本当に同じなの?と確かめずにはいられなかったから。
‪これは憶測だけど、きっと他人も、わかることがない状態で、決まりとなっている分類に従っているだけだ。‬


‪従うことで、理解ができるようになる。従わないものには、その世界を垣間見ることも適わない。‬


‪わからないのに従えるのは、全面的に信頼できる人や心を聞こうとしてくれる人がいてくれるからだ。‬
‪まず「やってみよー」って思えるのはとてもとても幸運で幸いなことなんだ。‬


‪従わないこともまた、一つの理解の仕様だけれど、そうして死んでしまう人のなんと多いことだろう。‬
‪でも、苦しみながらでも生き続け、従わない方法で世界を理解できるようになる人達もいる。そういう人々は、世界の分類の方を変えてしまうことがあるんだろう。‬


‪と、今の私は理解している。‬
‪だけど、私の「問い」が消えるわけじゃない。そして今は、これは自分で自分に説明していくしかない類の問題なんだってことを、うすうす感じている。‬
‪せめて、この、問いを立てられたなら。‬

 

私の秘密
‪世間の価値観に従いながら、自分の中にある意味の分類をすることを覚えたこと。‬
‪それには、自分で考えるより他ない。‬


Twitterは、本当に有り難い。‬
‪読んで下さる人がいて、考えている人がいて、たまに意見を交換して下さる。‬
‪聞いて下さるだけで、心は満たされるのに、さらなる思考のひだを与えて下さる。‬
‪本当に本当にありがとうございます。‬

優しさは返すもの?‬


 ‪昔の私は、貰った優しさを返そうとして、どうしていいのか分からずに焦ってワタワタと変な言動をしてしまうことが多かった。‬

 でも、相手は私から「何か」をひき出したくてしている訳ではないんだと、ある時、気がついた。‬

 その前は、何か目的があると思った方が気が楽になるから、何が望みか探りを入れたりして、逆に相手の気分を害してしまうことばかりしていた時期もある。‬
‪ その度に自己嫌悪して、その度に自分を責めても、全然、人間関係は上手くいかなかった。‬
 ‪( いや、今も上手くとはいえないんだけどさ。。アハハ‬
 ‪増しにはなったかなぁと思ってはいる←だから書いてんだけど )‬


‪ そこで、他人に言いたくなる言葉は全て自らに向いていると思うようにしてみた。‬
‪ 過去の私や今の私、未来の私へ向けて、私が私に伝えたがってるんじゃないかって。‬
 ‪( 自分を変えるのは無理だから、思考の最初にある視点をずらしてみたに近い )‬


‪ そうしたら、私は、誰かの優しさが欲しくて人に優しくしようとしていたことに気がついた。

 でも、それは、ただ喜んで欲しいって単純な気持ちから発していたことにも気がついた。‬
‪ で、相手も同じかもしれないって思うようにしていった。‬


 ‪違う感覚を持っている他人だから同じではない。でも確認のしようがないから、同じかもしれない可能性も違う可能性と同じくらい含んでいる。‬

 自他の境界線を持つことは大事だと言われるけど、境界線が引けるほど他人の情報を持っていないのに、最初から境界線が引けるわけがないんだもの。
 

 ‪私の場合は、同じかもしれないと思った方が行動の決定がしやすかった。‬
‪ あとは、私ならどういう反応が返ってきたら嬉しいだろう?って考えてみるだけだったから。‬
 ‪ぜーんぶ自分基準に考えるやな奴になったけどね(笑)‬

 いい人になるのが目的ではなくて、最初の「ただ喜んで欲しい」って願望が満たされればいいだけだったからさ。‬
‪ でも不思議なことに、自分本意のやな奴になったら人も気楽に接してくれるようになった気がする。‬
‪ ( 類友なんだけど、類友以外の人なら距離を置いてお付き合いした方が互いのためになる。そもそも、類友ではない親しい交友関係って最初の段階でどうやって築くんだろう。そして続くんだろうか。脱線するからここでは掘り下げないけど )‬


 ‪そしたら、見返りを求めていない人の方が多いことにも気がつけた。‬


 ‪あぁ、ただ、笑って欲しいだけなんだなぁって。喜んで貰えたら最高なんだなぁって。‬
‪ そこには誰の犠牲もなくて、笑いたいから笑ってる人達がいた。‬

 

 ‪優しさは返すものじゃなくて、ありがとうって貰うものなんだなぁって。‬
‪ 嬉しくなったら、また喜ばせてあげたくなる。

 湧き上がる感情を満たすために、喜んでくれそうなことで、自分にできることをする。‬
 ‪その連続なんだなぁって。‬
 ‪貰ってくれたらこんなに嬉しいことはないし、どんなことなら嬉しいか聞いて次を考えればいいしね。‬
 ‪( この考える時間がまた幸せだったりする )‬


‪ いらないって言われたら悲しいし、それまでだけど、昔の私は素直に人の好意を受け取れなかったなって思えば、余計なことしてごめんねって引き下がれるようにもなった。‬


‪ して貰ったことは返すギブアンドテイクは、人との付き合いでは欠かせない要素だけれど、そこに「喜んで貰いたい」って自分の意思を確認するだけで、儀礼ではない関係が始まると思う。‬


 ‪「喜んで貰いたい」がないなら、それは儀礼の関係だから、冠婚葬祭・マナー本に則って失礼のないように振る舞えばいいだけだもの。‬

 

 返す優しさなら儀礼で、受け取るだけで喜ばれる優しさには笑顔を。‬

スイカの想い出

 

 「おばあちゃんは、ママのことが嫌いなの? 」
 叶ちゃんは、おばあちゃん家の少しざらついた縁側に座ってそう聞きました。
 縁側の下で、叶ちゃんの足がぶらぶらしています。
 叶ちゃんの言葉に、おばあちゃんはスイカを食べる手を止めました。
 セミの声がいっそう煩く耳につき、見上げた空の青さが大きな雲をより白くしていました。

 

 パパのおばあちゃんの家は東京の外れにあります。叶ちゃんの住んでいるアパートからは、車で一時間位のところでした。
 叶ちゃんは、うんと小さい頃からパパと離れて暮らしていました。
 それでも、叶ちゃんはママと暮らすことに不自由も寂しさも感じたことはありません。
 会いたいと言えば、こうしてパパのおばあちゃん家にいつでも来て、パパにも会えるからです。
 そして毎回、パパもおばあちゃんも、叶ちゃんに会うのをとても楽しみにしてくれていました。
 叶ちゃんも、パパとおばあちゃんと会うのは嬉しいことでした。特に、おばあちゃんの家は、庭も縁側もあって、いつもどこかにワクワクを隠しているような気がして大好きな場所でした。
 ただ一つ、なぜママはいつも一緒じゃないんだろうって思っていました。
 今日だってママは、叶ちゃんをおばあちゃんの家の前で車から降ろすと、出迎えたおばあちゃんに一言挨拶しただけで、そのまま帰ってしまいました。
 いつも遅れて来るパパはおばあちゃん家で叶ちゃんと一緒に過ごした後、叶ちゃんをアパートの前まで送って、ママに会うこともせずに帰ってしまうのがお決まりでした。

 

 綺麗な三角錐をしたスイカがまだ二つ、お皿に盛られています。
 おばあちゃんの手の中のスイカは、一口齧られた痕をそのまま残し、叶ちゃんの持っていたスイカはうっすら赤い皮だけになっていました。
 おばあちゃんは、新しいスイカを一切れ叶ちゃんに手渡すと、
 「そうねぇ」
と小さく息をつき、逆に叶ちゃんに聞きました。
 「叶ちゃんは、大好きなお友達が悲しい顔をしてたらどう思う? 」
 叶ちゃんは、お友達のあおいちゃんの顔を思い浮かべてから答えました。
 「どうしたんだろうって思うかな」
 すると、おばあちゃんはニッコリ笑って、
 「おんなじよ」
と言いました。
 叶ちゃんは首を傾げて、おばあちゃんの顔を覗きました。とても優しい目がそこに溢れていました。
 「おばあちゃんは、叶ちゃんが大好き。悲しい顔をしてたら、心配で、おばあちゃんは眠れなくなっちゃう」
 そう言うおばあちゃんの言葉を聞きながら、叶ちゃんは心許なくコクリとしました。
 おばあちゃんはそんな叶ちゃんをみながら、また質問しました。
 「叶ちゃんは、ママのことが大好きでしょう? 」
 「うん」
と、今度は自信を持って、叶ちゃんは強く頷きました。
 「ママが悲しい顔をしてて、叶ちゃんも心配でよく眠れなくなっちゃったら、おばあちゃんも心配で眠れなくなっちゃうのよ」
 そのおばあちゃんの言葉になんだかくすぐったくなって、叶ちゃんは、
 「みんな、眠れなくなっちゃうね」
と、小さく笑いました。
 おばあちゃんも、くすぐったそうに笑うと、
 「だから叶ちゃんが大好きなママには、笑っててもらわなきゃねぇ」
と言いました。
 叶ちゃんは、
 「じゃぁ、あおいちゃんは? 別に、あおいちゃんが悲しくても叶は眠れないってほどにはならないけど、でも、叶がそれを悲しいって思ったら、おばあちゃんも悲しくなるの? 」
と、不思議に思って聞いていました。
 おばあちゃんは、食べかけのスイカをお皿に戻すと、叶ちゃんの空いた手を包み込むようにして言いました。
 「あなたが大切に思う人は、おばあちゃんにも大切な人になるわね」
 そんなおばあちゃんの手は柔らかくて、しっとりしていました。そうして、叶ちゃんの手がペタペタしてるのに気がつくと、
 「布巾、布巾」
と言いながら台所へ取りに行きました。

 

 縁側で、叶ちゃんの足がぷらぷらしています。
 叶ちゃんは、手にしたスイカに勢いよくかぶりつくと背筋を伸ばし、ぷっと種を飛ばしました。
 サクラの幹から、ジジと大きく蝉が鳴き立ちました。
 飛び去った蝉を見ようと急いで縁側を降りましたが、もうどこにも見当たりませんでした。
 そして、
 ( 一緒じゃなくても関係ないんだ )
と、目で蝉を探しながら思いました。
 サワサワと葉を揺らし、叶ちゃんの背中を風が通り過ぎていきました。
 空へ向かってもう一度、ぷっと飛ばした種も、どこへ飛んだのか見えなくなりました。
 いつの間に戻ったのか、布巾を手にしたおばあちゃんがそれを見ていて、
 「来年、庭のどこかで芽が出るかもしれないわね」
と、嬉しそうに笑いました。

愛があるのは子の方だ

‪親の愛情不足という文言をまた目にした。‬


‪いつも思う。‬
‪そもそも親の持つ愛情は愛情なのか、と。‬


‪愛を持っているのは子の方だ。‬

 

‪私はその世間の認識を払拭したい。‬

 

 

‪子供はどんな親だろうが、自分の命を全て委ねる。‬
‪受け入れる。‬
‪あの、子がよせる親への全幅の信頼と全肯定を私は他に知らない。‬


‪親は違う。‬
‪子供を全肯定はしない。できない。‬
‪他と比べて、歩くのが遅い、喋るのが遅い、字を覚えるのが遅いとできないことに不安する。‬
‪できたとしても、そのできたことに喜び、価値をおき、もっともっとと欲する。‬
‪こんな子に育って欲しいと願い、要求する。‬


‪果たしてそれを愛情とよぶのか?‬

 

‪一方、子供は、親を全肯定する。‬
‪疑うことをしない。‬
‪親のすること、やること、望むことを、真似して成長していく。‬
‪親の要求することに懸命に応えようとする。‬
‪虐待を受けた多くの子供が、なぜ揃えたように「私が悪い子だから」と口にするのか。‬
‪それは、親を全肯定している表れのひとつだ。‬

‪と、私は思う。‬


‪愛情があるのは親ではない。‬
‪愛を与えるのも親ではない。‬
‪子供から愛を貰っているのだ。‬
‪愛を貰うから、そしてその子供の愛に気づかされるから、親は子に愛情を抱くのではないか。

‪そうした子供の愛に気づけない、子供の愛を受け入れられない人が、「子供を愛せない」と嘆くのではないか。全肯定されるのは、実は怖いことだから。‬
‪だから親は、子育てをしながら自分の心を見つめ直すことになる。‬
‪自分で自分を肯定していくことができて、やっと、他から貰う肯定を受け入れられるようになるものだから。‬

 

‪親は、そうした子供の持つ愛(信頼、全肯定)に、どれだけ応えてあげられるのか、ではないか。‬

 

‪人ひとりの信頼に応え続けていくことは怖い。しんどい。辛い。‬
‪全肯定されることが、こんなに怖いことだなんてと、私は慄いたものだ。そうして愛おしくなった。‬
‪目の前の委ねられた命は、私がどんな人間かも知らずに、全てを預けている。私が「良いこと」と言ったらそれを「そうだ」と信じる。きっと、カラスは白いと教えたらこの子は「白」だと思うのだ。楽しいと笑えば、楽しいと感じるようになるのだ。‬
‪正しいことが何かも分からない人間が、この子に正しいことなど教えられるのか?‬


‪そうした怖さがいつもあった。‬

 

‪だから、子供は一人では育ててはいけないのだと思う。‬
‪私が正しい、良いこと、楽しいと感じることばかりではなく、より多くの人の、正しい、良いこと、楽しいに触れられるように。‬

‪そうして、その中から、自分の正しい、良いこと、楽しいが創られていくように。‬

間違っても、親の思う正しい、良いこと、楽しいを押しつけたりして、それが絶対だと思わなくてもすむように。

 

それでも「愛情不足」という言葉を使いたい人がいるなら、それは、子供の愛に応えられない大人社会の愛情不足だ。互いが信頼し、肯定しあえる社会がないことにある。

子供の愛に応えてあげられる社会の実現は、誰もがかつて子供であったことを思えば、誰にとっても自分の愛に応えてくれる社会であるといえるのではないだろうか。

 

愛を、「望み」とはき違えることがなければ。

嫌われる勇気じゃない

‪嫌われるのが怖いのではなくて、本当は「好きになる」ことが怖い。‬


‪好きになったら幻滅するし、

好きになるから嫌いになるし、

好きだから嫌われたくなくなる。

期待に応えたくなる。‬
‪そして、もうこれ以上、期待に応えられない自分をみたくない。

人を嫌う自分を嫌いになりたくない。‬

(全てを許容してほしいという深層にあった心が、無意識に全てを許容しなければと思っていた。だから、相手の期待に応えられない自分がダメなのに、不甲斐ないのを棚にあげて嫌いになるとか、超絶身勝手すぎる!ありえない!って首を絞めてた。)


‪そうして昔は拗らせていたから、好きになる前に関係を切っていた。‬
‪立ち入らせなかった。‬

好きにならなければ嫌いになることもなかったから。

同じように、好かれている間に別れたいと、よく思ったものだ。

どこかで気がついていたんだよね。

好きになったら「嫌い」も必ず出てくることに。


ただ‪皮肉なことに、人とのあらゆる関係は、自分が「好きになる」ことから始まる。‬
‪そして「好きになる」ことがなければ持続しないのだ。

なぜって、「好きになる」ことでそこに他者が存在するようになるからだ。‬

心に他者が存在しないとは、孤独ではなくて孤立だ。心の孤立なのだ。


そんな中‪、それでも私が「好きになった」人達から学んだことは、嫌いになっても構わないということ。‬
‪幻滅してもいいし、悪態をついてもいいし、期待に応えなくてもいい。‬
‪全部を好きじゃなくていいんだってこと。

 

私はこれで、とても楽になった。‬
‪好きになることが怖くなくなったのは、一度好きになったら死ぬまで好きでい続けなければ裏切りになると、どこかで思っていたからだ。‬

ちょっとでも嫌いなところとかあったらダメだと思い込んでいた。それもあって、好きな人のダメなところとか見えても、見て見ぬ振りをして懸命に許容しようとしていた。

ダメじゃない。ダメと思ってしまう私の心が狭いんだって。

私の幸いなところは、弱みにつけ込んで踏みにじるだけ踏みにじっていこうとする人達が周りにいなかったことだ。

(見守って下さったご先祖さまに感謝しております)

好きな人の中に嫌いなところはあるし、嫌いな人の中にも好きなところはあるものだ。

そうして相手も、その事は重々承知の上なのだ。重々承知の上になければ、その関係はいつか破綻するように思う。

だから、ごめんねとありがとうが日常に必要で、必須の心となる。

なかったらやっぱやってらんないってなるのが人ってもんだと思うんだ。‬
‪嫌いが持続しない、持続させないって、とっても大事。

つまり言い換えたら、「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えたらどこでも生きていける!ってこと。

これは私の持論だから、

「そこそこね」

と弱気をつけ足しておく。

私もまだ人生の途中だから、さ。

 

それに気がついてからは、自分の中にも好きなところと嫌いなところがあって当然なのだと思えるようになった。嫌いなところをダメだと思わなくなった。‬

あ〜、そんな日も、そんな時もあるよねぇ。ドンマイ!次からもうちょっと気をつけるー

(直るとは言わないし、直すとも言わない)‬

そんなんだから、相手にも求めなくなった。‬
‪「そういうとこ、嫌いー」で済むようになった。

(たいてい本人に言う。ちなみに「そういうとこ、好きー」も思ったら言う)

 

そうして、言えるようになってから気がついた。

「そういうところが嫌い」って本人に言えるのは、それでも好きだと感じる心があってのことなのだと。

「そういうところが嫌い」って言われても受け入れられるのは、それでも私の「好き」がそこにあるからなのだと。

それでも好き、

だから好き、

含めて好き、なのだ。

本当に嫌になって関係を絶ってしまいたい時は、本心を見せたくなくなる。それは、「嫌い」という言葉だけでなく、どんな言葉もなくなるということだ。

言葉は心そのものだから。心のない言葉は空っぽで、空っぽだから上滑りしてどこにも届かない。

 

だからといって、好きだと思っていた「時」の事実は変わらない。

 

インサイドヘッド(ディズニー映画)を観た人はわかると思うけれど、最初は一つの思い出には一つの感情だった想い出の玉が、最後はあらゆる感情が織り交ざった玉になっていた。

(観てない人は、なんのこっちゃって話だから、機会があったら観て下さい。o┐ペコリ)

本来、人の感情とはそういうもので、一つの事柄に一つの感情なんてありえない。

 

好きと嫌いは喜怒哀楽だけでなくあらゆる感情の元となるものだから、もっと混在していて不思議はない。

むしろその方が自然だ。

 

一度「好き」と思ったら、ずっと好き、全部好きではなくて、

「好き」と思ったその時があったのなら、

その事実があったことは変えようがない、

ということなのだ。

もし、「あの時の私はどうかしていた」と、あった感情をなきものにしようと誤魔化したとしても、他人は欺けても自分で自分を欺くのは骨が折れるし、そのうち本当の自分の気持ちが分からなくなるからやめておいたほうが良いよと、そっと置いておきます。

 

そして、ずっと好き、全部好きって今思っている人がいたら、

幸あれ!♪

その気持ちに嘘がないなら、嫌いになところを見つけても、ダメなところがあっても、互いに上手くやっていけるさ(´∀`*)

きっとね、きっと。

 

いいところひとつ
それで人間生きていける

だめなところたくさん
それで人間愛される

エロってなんだろう?

‪この間、とあるツイートを読んでふと疑問に思ったので、自分なりに解釈するために調べてみた。‬
‪まるで中学生みたいだと思いながらw‬

エロを調べると、わいせつという言葉が出てきた。わいせつってなんだろうってウィキを開くと、「社会通年に照らして性的に逸脱した行為」とある。‬
‪ますます分からなくなった。‬

そこで、エロの語源となったエロティシズムをウィキで読んでみた。‬
‪リビドー、ギリシャ神話の女神エロース、キリスト教でいうところの愛であるエロス・フィーリア・アガペープラトンイデア論などなどの名前がずらずら出てきた。

 

‬‪面白いなと思ったのは、バタイユの考え方だった。‬
‪「自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと……身を溶け込ませようとすることが、すなわち快楽である」‬
‪「性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える」‬
‪そして、シモーヌ・ド・ボーヴォワールによる「個体性は要求されない。雌は、種の保存のために自己放棄が必要だとすれば、自己を放棄するのである」とあり、従ってポルノグラフィとエロティシズムを明確に分けるのは正しいとあった。

「猥褻はリアリズムの特徴を帯びている。そこでは肉体や性行為は、モノとして示される」とも。‬

なんとなく、腑に落ちた。‬
‪わいせつは、性をモノとして扱うから気分を害し、エロティシズムではなくエロは、モノとして扱われることで感情を扇情させるよう特化されているんだなと。‬

性行為は個の放棄に繋がる。‬
‪この考えは、私にはなかったものだけど、言われてみたらそうかもしれないと思えた。忘我の境地でいられる時は、性行為でなくとも気持ちがいい。‬
‪けれど個を放棄することは、恐ろしさや怖さでもある。‬性行為でなくともモノ扱いされるのは不快だ。
‪なのに、放棄しながら他者との共同へと身を溶け込ませることができたなら、さらに大きな快楽になるだろうなとも思えた。‬
‪つまりは、どこかで人は個を放棄したいと願っているのかなぁとも。‬

 

そこでつらつらと考えてみた。

個を放棄することは、本当に快楽になるだろうかと。

 

私は、‪自分の背中は見たことがないのに、背中がどういうものかは知っている。‬
‪なぜならそれは、人の背中をみて、私の背中と思っているからだ。‬

アダムとイブは禁断の実を食べたことで、互いが裸であることに気がついたとあるけれど、それは、人の背中は私の背中ではないと気がつくことに似ているのかもしれない。‬‪

 

つまり、他者をはっきりと意識することにある。自分とは違うことに。そこに羞恥心が生まれたと考えると説得力が増す。‬
‪例えば、人の目がない風呂場で裸になっても恥ずかしくないように、誰もいなければ恥ずかしさは生まれない。‬
‪とはいえ、誰もいないのにとある行為をすると恥ずかしさを感じることはある。それは、他者という自分の目が自分の中に既にあるからだ。たぶん、良心とか、客観性とよばれている類のもの。子供の頃を思い出してみるとわかる。自分の心に他者がいない頃は、罪の意識も恥ずかしいと思うこともなかった。‬

私の感じていることは私しか感じていない。

 

一体感からの断絶である。同じだと思っていたところに、同じではなかったという衝撃は絶望や不安や猜疑心を生む。なぜなら私が感じていることを相手も同じようには感じていないのだから。

疑いはこうして生まれる。‬

違いながらも同じであることを希求するのは、他者の存在がなかった頃の一体感がもたらしていた喜びや安心感にあるとしたら、バタイユのいう「共同へ身を溶け込ませることは快楽である」というのも頷ける。‬

 

ひょっとすると、モノではなく、個としての同じを求め求められた時、個は必要なくなるのかもしれない。

 

そんなことを思った。

 

 

電車に乗るようなものだという
あたかもレールがあるかのように

 

思い返せば、
私は電車に乗れたのだろうかと思う
みんなが乗った電車に

 

親が乗っていた乗り物から
降りたくなったのはいつからだろう

 

これに乗りなさいと
切符を渡されていたのに

 

私は結局
みんなが乗った電車の後から
途方に暮れて
歩き出したようなものだ

 

途方に暮れていたはずなのに
見てきた景色がかけがえのない彩りとなり
気づけばレールは消えていた

 

頭の上には広がる空と
足元には小さな花と
見渡す限りの草原が
水平線の彼方まで風渡る

 

気づけばここに
この世界に
放り出されたように感じても

 

最初はみんな
行く方向に
つられるように進んだとしても

 

楽そうにみえる
乗り物に
たとえ乗れなかったとしても

 

降り立ったところで
人はいつか
歩かなければならなくなる

 

見えていたレールが消えて
どこへ向かっていいのかわからなくなったとしても

 

自らの足が
全方位へ
わたしをはこんでくれるだろう

 

行きたい方へ
みたいところへ