わたしが私という存在に気がつくまでの話

‪わたしが私だと気がついたのっていつだったんだろう。‬
いや、気がつく前のわたしも私ではあったんだけど。
わたしと名のつく私は、分断してたくさんいる。総称して私だと気がついたのは、みたいな意味で。


先に存在しているものがあって、その目を通して世界をみてた。
小さい頃から「コトちゃん変」って言われるもんだから、戸惑ってはいたけど、私は、世界と同じだと思っていたから、何が変なのかが分からなくて傷ついていたんだと思う。

 

前にも書いたけど、違うとはっきり思ったのが、高2の時だった。母と同じものを聞いていたはずなのに、捉え方がこんなに違うって。違うのはなんでなの?と言語化したことによってくっきり浮き出た。

同じ教科書を読んで同じ授業を聞いても理解度が違うのは、みんな、「それぞれに」違うからなの?って。


でも何が違うのかは分からなかった。違うことだけがわかって、他人が他人として浮き出ただけで、そこに「自分」と呼べるものがなくて焦ったんだと思う。


そんな最中に東京へ出て、一人暮らしを始めて、友達もできなくて

(いたんだけど友達が何かもわからなくなってしまっていた。そんな私と繋がり続けてくれたのが友達だとも気づかなかった。)、

短大の授業で「自己確立」って言葉に出会って、自分って何だろうって考え始めた。


自分が何かわかるまでが苦しかった。


自分って何?
そうは思っても、自分が浮き上がってくることはなかった。


生死について考え始めたのも、この頃だったな。

自分が何かを知る根本に、生死があったから。哲学を知らなかったから、文学を読み漁って、でも理解はまったくできないままに文字だけが流れていってた。


で、死んだ。
クラスメートだった知り合いが。
バイクの事故だった。


ここに死にたい私がいるのに、死にたくなかったであろう同い年の人が死ぬ。
いつか死ぬのではなく、死は予期せず訪れるんだと、強く思った。


自分がわからないまま卒業して、私を必要としてくれる人と結婚した年、父が亡くなり、私は子供を産んだ。


生も予期せず訪れる。


子供を産んでからだと思う。
わたしが、私になっていったのは。


必要としてくれるから結婚した人を、結婚してから「好き」とはっきり、毎日確認していくような日々が、わたしとは違うあなたと私を浮き彫りにしていった。

そうして、私という存在を疑うことなく愛してくれる子供がいた。


わたしは、自分って何か?ではなく、圧倒的な存在でもって知った。
理由がいらない。
好きにも、愛にも、存在も。
あるものはある。それだけだと。


今は、二十歳になった息子に言われる。
「お母さん、変」って。
だけど私はもう戸惑わないし、傷つかない。わかってくれないって子供の頃の癖で卑屈になりそうなときはあるけど、自分を探したりはしない。
だって、ここにいる、それが私で、あるものだから。

変でも通じなくても、存在するものは変わらない。

(感情も、生活も、思考も変わっていくけどね。

細胞が生まれては死ぬを繰り返しながら毎日同じ私を作っている。

毎日同じスープを作る料理人みたいに。

毎日まったく同じではないかもしれないけれど、味はいつも美味しい、みたいな。)

感情の行方

‪中学の頃、クラスで「火垂るの墓」を観た時、私は泣いた。クラスメイトの何人かは、それを「ぶりっ子」アピールと受け取った。私は、そう受け取られたことにもショックを受けた。‬
‪ただ悲しかっただけなのに、なぜそんな風に受け取られてしまったんだろうって。‬


‪母によく、嘘泣きをするなと怒られた。あれは、「感情を使って人を操ろうとするな」と言いたかったんだと、今ならわかる。‬


‪子供は、とある感情によって他人を操れることに味をしめると、嘘泣きを覚えるし、嘘怒りを覚えるし、嘘笑いをするようになる。それは成長の過程だ。そこで、「感情を使って人を操ることの危険性」を教えて貰えないのは不幸の一つだと思う。‬
‪とはいえ、本当に、悲しさや怒りや喜びを抱えたとき、幼かった私はどうしていいのかわからなくなってしまった。‬


‪たぶんだけど、なぜ母はそうした感情を執拗に嘘をつくなと怒ったのかといえば、操られたくなかったからだと思う。操られたくなかった母と、操りたかった私の攻防は拗れて、私は、母は私の望みを叶えたくないのだ、私などどうでもいいのだ、嫌いなんだと思うようになっていった。‬
‪けれど、操りたいところを感情が離れたら、私はただそう思っていただけになった。そして、愛していたことも、今も愛していることにも、気がつけた。‬


‪この、感情に操られたくない人は多々いて、操られたくない人の方が、他者感情に翻弄されやすいのだと思う。‬

中学の頃の何人かのクラスメイトも、きっと私のみせた感情に、ただ操られたくなかっただけなのだろう。


‪処世術として覚えたことは、今抱えてる私の感情によって、どうこうしようと考えなくてもいいですと伝えることだった。どうこう考えたくなるでしょ、そんな感情みせられたら!って言われたら、ウフフありがとうってちゃっかり受け取ることだった。‬それでも、あなたはあなたの感情に従ってくれればいいんだよって、ことある毎に伝えていくこと。


‪感情は使うものではなくみせるものだ。‬
‪使うようになると、感情をみせるのが怖くなるし恥ずかしくなる。何かが変わってくれないと、その感情は無駄になるし、変わらないといけないものになるし、芽生えるだけで罪悪感を伴うようになってしまう。‬

例えばこうだ。

そんな風に思ってなどないくせにと、指摘されるのが怖くなる。

思ってもいないことだから恥ずかしくなる。

変わらないものに何かを思うなんて、無駄だから思うこと自体をやめてしまおう。

せっかくこんな感情になったのだから、何かをしなければ気が済まない。

怒ることは誰かを操ろうとすることで、そんなのはいけないことなのに。

などなど。


‪みせるだけでいいのなら、ショーウィンドウに並んだ洋服と同じで、目に止まった人とウフフ、ウフフって確認するだけのものになる。どんな感情も、流行りのように、流れていくものになる。自由に、漂っていける。‬


‪そうして感情っていうのは、自由なものだ。使おうとしなければ。いつだって。‬


‪怒りも悲しみも喜びも楽しさも、芽生えただけの感情はそのままに、みせてもいいし、みせなくてもいいもので。‬


‪たまらずに溢れてしまったものが垣間見えても、あぁそうなんだねでよくなる。‬
‪そうしたら、互いに構えることなしに、気持ちはみせあえるものになっていくと思うんだ。‬

生きる意味はどこにあるのか

2歳の息子が、靴が履けないと地団駄を踏む姿に、なんて素晴らしいんだろうと思った。
母さんがしてあげるから良いでしょうとはならない。履けたから良いでしょうでは、決してないのだった。
自分でできなければ意味がないのだと、この世の終わりみたいにして泣く我が子に、ほとほと困りながらも、生きる態度をそこに見つけた気分があった。
できるようになりたいなら泣いていてはいけません、とにかく何度もやりなさいと、諭したけれど、諭されているのは私の方で。
息子は何度も何度も、まだ自分の思う通りに上手くは動いてくれない手や足を動かして、何度も何度も癇癪を起こしながら、それでも諦めたりしなかった。
その姿は、この生を生きる姿そのものだった。
自分でできるようになりたい!他の誰でもない、この僕ができなければ意味がないんだと、全身で泣く我が子が愛おしかったのを昨日のように覚えている。

 

これだと思う。生きる意味は。


生きる意味ってあるんだろうか?と懐疑的になり、全てが無意味だと思う人に問いたい。
人が体現したことに意味がないと気がついたのなら、なぜ自分が体現することに思い至らないのだろう。
それは、全てが無意味だとしたその「全て」が、人の考えや成したことにあり、自分の考えや成したことがそこにないからではないのか。
自分でできるようになることを、ただ諦めようとしているにすぎないのではないのか。


誇らしそうだったよ。できなかったことができるようになった息子は、いつだって。
そしてできなかったことができるようになることは、その本人にとったら誰にだって誇らしい瞬間なはずで、周りと比べたらできてないことに等しいことでも、できて当たり前とされることだとしても、その誇らしさを無意味とするならばそれは自分を欺くことになる。


自分を欺くとは、真実から遠ざかることだ。
おかしなことではないか。生きる意味とは何だろうと真実を知ろうとして、たぶんあらゆる人の言説を読み解こうとした結果、無意味にたどり着く人たちなのだろうから。けれどそれは、自分のできなかったことができるようになったところも含めて全てが無意味だと結論づけて真実から遠ざかろうとするに等しい。


自分でできることに何の意味がある?
と問う人のその問の前には、括弧付きで、他の人にできることがと付いている。つまりは、人生は全て無意味とする人の「全て」とは、他人の全てという意味にすぎないのだ。
それは、他人を生きようとしているのだから、無意味というところからは出ることが叶わなくなるだろう。


他人にできることに何の意味がある?
と問えば、自分の生きる意味がそこにあることに気がつくだろう。


といっても、自分にしかできないこと
ではない。
自分に「しか」できないことを探そうとすれば、幻想を必要とし、これもまた真実からは遠ざかる。


自分「に」できることでもない。
自分にできることとは、もう既にできるようになったことである。これは確かに実現した自分となり、生きてきた意味ではある。ではあるが、自分に甘んじて先に進もうとしない姿勢になると、そこに成長はない。成長を試みなければ、もう「私」は必要ない。生きていく意味にはならない。


そうではなく、自分「で」できることなのだ。


できない自分との格闘で、苦しくはある。苦しくはあるが、他の誰でもない「私」が必要で、私でできなければ意味がないものになる。私でできるようになるから、意味がある。


生きていく意味は、私で生きていくところに生まれるものだ。

「太陽の子」(灰谷健次郎 理論社刊)を読んで

「もし、わたしが たった一つ、あなたに語りかける言葉を持つとするなら、あなたの悩みや苦しみは、あなたの父や母、そして、あなたの「生」につながるたくさんの「死」が、同じように悩み苦しんできたということを忘れないように」

 

「たいていの人間は得手勝手なもんや。おとなのことばでエゴイストっていうんやけど、人間が自分ひとりの欲のために、それぞれ勝手なことをしている世界は、冷たいもんや。……おひとよしは人にだまされたり、損したり、貧乏したり、つまり、ろくなことはないけれど、エゴイストにはない、なんかがあるやろ。なんかいうたらなんやいわれたら困るけど、おれみたいな人間でも生きとってよかったなあって感じるぬくーいもんや。人をはげましたり、人をやさしい気持ちにさせたりするなにかや」

 

「生きている人だけの世の中じゃないよ。生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持ちを持つことができるのよ、ふうちゃん」

 

「勇気いうたら警察で暴れたりさかろうたりすることやない。けんかして勝つことでもない。勇気いうたらしずかなもんや。勇気いうたらやさしいもんや。勇気いうたらきびしいもんや。……山之口獏……
土の上にゆかがある
ゆかの上にはたたみがある
たたみの上にあるのが座ぶとんで
その上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽にすわったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしているように
住みなれぬ世界がさびしいよ
……『座ぶとん』
……人間いうたら自分ひとりのことしか考えてえへんときは不幸なもんや。」

 

「人間いうたらどんなときでもひとりぼっちやとおもとったけど、そやなかった。たしかに人間はひとりぼっちやけど、『肝苦(ちむぐ)りさ』の心さえ失わへんかったら、ひとりぼっちの人間でもたくさんの人たちと暖こうに生きていけるということがわかったんや。」

 

「自分はおとうさんとおかあさんのあいだに生まれてきた大峯芙由子というひとりの人間だと思っていたけれど、自分の生は、どれほどたくさんのひとのかなしみの果てにあるのかと思うと、気が遠くなる思いだった。」

( 本文より 心に残していきたい文をいくつか掲載致しました。 )


灰谷健次郎さんの言葉は、「生きろ」と呼びかけながら軽くこちらを死にたくさせる。それほど重い。
中学生の頃だったろうか。「兎の目」を読んで、あの時の私も、自分という人間がたまらなく嫌になった。
なぜかという理由は書きたくない。書けば、全てが綺麗事や偽善になる。
そう思わせるほど、自分という存在を消したくなる。
その想いを、あえて、書いてみようと思う。

 

綺麗事や偽善という自分の醜く汚らしいところを、私の中にあると認める。
人は醜いし愚かだと、まるで自分ではないように書くのではなく、自分が醜く愚かだと書く。
そしてそれを卑下するのではなく、事実あるものとして生きる。
だって汚いし醜いし、愚かだ。それでも、私は生きている。私の存在は、消えない。逃げようとしても、逃げられない事実なのだから。
良いとか悪いで評価されたり価値付けされたりできないのが、生きるってことだ。
そして、自分が汚いことを認めたくないばかりに目を逸らすなら、汚い自分の方がいい。
綺麗でも汚くてもどちらでもいい、そう思った。
大切なのは、大切にしたいのはそこじゃないから。

ちゃんと整理して、これからを考えていきたい。いけるようになりたい。
(この部分、削除して載せようと思った。なぜなら、これは自分だけが知っていればいいことで、みなにわざわざ読んでもらう必要のない部分だからだ。けれど、あえて消さずに残しておく。掲載するまでの葛藤中、多くのフォロワーさんのツイートに励まされた。さらけ出す勇気をありがとうo┐)

 

「太陽の子」は、沖縄に生まれ神戸で暮らす人々と、そんな父と母をもつ神戸生まれの女の子の話だった。

戦争によって傷ついた人たちがいる。
そしてそれが、尾ひれのように、今も地続きで繋がっている。
それがたまらなく悲しいし、痛い。
沖縄の現状は、基地問題で考えるなら、今も変わらないままある。この物語は1978年に出版されたものだ。それから約40年経ったのに、だ。それだけで堪らなくなった。
そして、オキナワという差別感情が日本の中にあったことを、読むまで知らなかった。
知らなかったということは、少なくとも私の暮らしてきた世界にはなかったということだ。それを、少しは良い方向に変わったこともあると受け取ることもできる。
ただ、オキナワをチョウセンやカンコクに置き換えたとき、いやもっと私の身近なところでいうならテンコウセイやシンザンモノに置き換えたとき、この「太陽の子」に描かれた世界は現実化する。
つまり、人社会は変わっていない。
なぜか。

土地に根付いて生活してきた人の暮らし方がある。新参者は、その暮らし方を教えてもらわない限り、彼らの中に入ることができない。そして、新参者には新参者の、それまでの暮らし方があり、それを一切捨ててしまうことはできない。できないがために、全てを彼らの暮らし方に合わせられない。また、これまでの暮らし方をもってしか、彼らの暮らし方を理解するやり様がないため、教えてもらってもわからないことが多くなる。
彼らは、今までの暮らし方で暮らしているのだから、新参者がその暮らし方に従わないようにしか見えない。また、新参者がいなくても暮らしていかれるがため、新参者を無理して理解しようとしたり、新参者に合わせたりしようとしない。気に入らなければ出てってもらって結構、だからシンザンモノはダメなんだと、平気で切り捨てる。
いつでも、新参者の方が、理解しようとしなければならず、合わせなければならない状況が出来上がる。
この、一方向の力関係が差別だ。

差別は、既存側が、その人の背景を知ろうとしないことから起こる。そして、既存側は、その背景を知る必要性がない。必要性がないから、「郷に入っては郷に従え」と努力を新参者にだけ求めようとする。
本当は、既存側が知ろうと努めない限り差別はなくならないのに。
そうして、既存側は、差別が何かその意味がわからないために、「差別」だと言われても、「区別」だとか、知ってもらう努力はしたのかとか、なんで無理して付き合わなきゃいけないの?と思う。
新参者にしてみたら、知ってもらうには、好きになってもらうしかやり様がなく、ひたすら「役に立つ」ことや「良い人」を目指し、貢献することを知らず知らずに課せられてしまう。

差別は既存社会の問題ではなく、自分にとって好きな人や物事のことだけに理解を示す性が私に潜んでいるからだ。
本当は、関わる全ての人の背景を知ろうとしなければ、すぐに自分自身が差別する側へ回る。
関係性が一方向になっていないか、気を配らなければならないことは疲れる。だから最初から対等に付き合える人と好んで付き合う。つまり、新参者がへりくだる人だと判断した場合、つい嫌煙してしまう。それは、差別のつもりがこちらになくても、新参者にしてみれば同じにみえるだろう。
気をつけてはいても、そういうことをすぐに忘れる。
もっと悪いのは、問題を、社会や人の性にあるよう転化して、個人の、つまりは私にあることを認めない心にある。
あると認めても、苦しさのあまり、自分を嫌いになったり、蔑んだり、責めたりすることで、問題から遠ざかる。あたかも自分が差別について考えているかのように、自分の目を欺いてしまう。
私にあると認める。
苦しさを受け入れる。
すると今度は、ただ理解を示すだけが私にできる最大のことだと知る。
差別に苦しむ人の痛みをただ知るだけで、結局、その人の痛みを取り除く術がない。
私一人がなるべく知ろうとする姿勢を心がけるしかなく、社会に働きかけようとするにもその術がない。
そうして、私の身近な周りの人たちをせめて幸せにするよりないんだと、いつも思う。

沖縄の基地問題は、もっと複雑だ。
オキナワと言われたくないのと同じように、私はヤマトーと言われたくない。
言われたくないが、日本の安全を考えたときに、沖縄から基地がなくなるのを賛成できなくなる。
沖縄が痛みを抱えたままなのを知りながら、
押し付けている。
ヤマトーだ。
思考停止してしまいそうになるけれど、その痛みの背景を知ろうとすることはできる。
尾ひれのように続いている戦争の痛みを、苦しさから逃げるように時代のせいにしたり、仕方なかったこととして片付けない。
沖縄にあったこととそこから繋がる今の現状を、自分に起こったこととそこから繋がる未来に置き換えて捉えてみる。すると、米軍基地が今でもそこにあり続ける痛みの片鱗が少し見えてくる。
そこに、米軍基地がなくなったら生活の糧がなくなるだろうに、とか、お金が欲しいだけだろう、とか、同じ日本人なら全体の安全を考えてみるべきだろう、とか、そういう声を被せると、私の中には怒りが湧く。
沖縄が返還されたときから基地はあり、治外法権としてあり続けた。それでも暮らしていかなければならなかった人々に、共に暮らす方法を考えるより他に何ができたろう。お金を払えばそれでいいのか。日本の安全を同じ日本人なら考えろと言うが、同じだったことはない。沖縄に痛みを押し付けたまま、安全の上に暮らしを立てて胡座をかいてきたのは誰だ。
私だ。私なんだと、苦しい。
その苦しさは、沖縄の人たちの味わってきた苦しさの前で吹き飛ぶ。
そうとはわかっても、日本の今ある安全に組み込まれた米軍基地をなくすことはできるのか。
そこからの知識がない私には判断ができない。ましてや政治家でもない私にできることもない。
知ればただ痛いだけで、心は苦しい。
ごめんなさいと謝れたらどんなにいいだろう。だけど謝ったところで、沖縄に米軍基地がある限り、その痛みは尾ひれのように続いていくのだ。
せめて共に痛めたらいいのに、米軍基地があることで保たれた安全の上で暮らしていくしかない私がその痛みに寄り添おうとすれば偽善になる。
頭を下げる他に思いつかない。
共に日本に暮らす者として、これからの日本の安全をできれば一緒に考えていきたいと願いながら。

痛みを知ることは、自分の今までの暮らし方が変わってもいいことを覚悟させる。
変わらないまま、その痛みに寄り添おうとすることはできないから。
そして痛みを知れば、人として放ってはおけなくなる。何かしてあげたい気持ちになる。それを放って、私は私、その痛みは私のものじゃない、痛みを背負ったものが自分で解決するしかない、と背を向けることもできる。けれど、心は冷たくなる。
それに、本当に痛みを知ると、もう自分が痛い。自分が痛いから、背を向けることも、何もしないでいることもできなくなるのに、できることはほとんどない。
だから、なおさら、人の痛みを知ろうとしなくなる。何もできない自分に失望したくないから。
人の背景を知ることが怖くなる。知っても、できることは何もなく、心だけが冷えていくのを避けるように。
それに、自分の暮らし方もそうそう変えられないし、変わることへの不安と対峙しなければならなくなる。
ここで、境界線を引くことが役に立つ。
自分の痛みと、相手の痛みを混同しないように。自分にできることと、実際に痛みを負った人にできることは明確に違う。
自分にできることは何かを考えられるようになる。
自分にできる限られた中で、一つひとつ模索していく。
すると、知ることが怖くなくなる。
実際に痛みを負った人が、痛みをそのままにすることなく、痛みと向き合っていけるように、見守る姿勢が保てるようになる。
見守るって、結局は、自分の暮らし方を今すぐ変えることなく、相手の暮らし方をゆっくり理解していく時間だ。自然の成り行きに任せるようで、何もしないのと同じにみえるけど、そこで焦らない。焦ればきっと対立するだけで傷つけることがさらに増えるだけのような気がする。かといって変化を頑なに拒むのでもない。
変わるのは、そこへの眼差しだ。
双方にてんでバラバラだった視線を、共に歩んでいけるような未来へ向ける眼差しとなるように、私の視線が変わっていくのだ。
それからだ。
基地がなくなって生活の糧を失うかもしれない人々の背景や、本当に金銭だけで支えられるのか、それが共に歩んでいける未来へ繋がるのか、沖縄も含めた日本に住む人達の安全は基地なしでも現段階で保たれるのか。それらを共に考えていけるようになるのは。


沖縄で何があり、そこに暮らしてきた人々が何を感じてきたのかが啓蒙されていきますように。その時、「太陽の子」に描かれていた沖縄の遊びや、沖縄の人の温かい魂も一緒に、私たちの中で息づいていきますように。
そうしてここに、私のできることを見つける。
もう、その心は、私に根付きはじめているから。
「肝苦(ちむぐ)りさの心さえ忘れなかったら、人は温かく生きていける」
この言葉を、大切に育てていこうと思う。

 

もう一つだけ。
戦争について書いてあるはずなのに、実は人の心にあるものがありありとしてしまう作品が多くある。この「太陽の子」もそうだった。
戦争を振り返ってみるときに、人の性を見せつけられて、それが自分の中にもあると認めないうちに、「戦争」を考えることはできない。
なぜしてはいけないのか、なぜ起こるのか、それは人の性に大きく関わることであり、自分にあるものとならない限り、起こさないために何ができるのかが、偽善になってしまうからだ。
そして、一人で考えても綺麗事にしかなっていかない。
だから、多くの人の意見や想いが必要なのだと、強く思った。

 

これは、それを知るための、私の足がかりです。

独りにみえて、独りじゃないよ

‪小学2・3年生の頃、時間がよくわからなかった。‬
‪「なぜ、今日が昨日になって、昨日になる今日が明日にもなるの? 」‬
‪曜日も、

「なんで、今日が火曜日なの? 水曜日になることもあるのに?? 」

と、なぜ色々なことが既に決まってしまっているんだろうと、不思議で不思議で仕方がなかった。

目安でしかないことを知らなかったから。

まるで、同じではないものを同じにして、同じだと思うものを別にしているようにみえていた。

だぁれも、分類に必要な視点を教えてくれる人はいなかった。

そしてその視点を教えてくれることがあっても、それはよくわからない誰かのものであったから、理解し難いものだったのは当然である。


たどたどしい‪口調でそれを、親や兄に懸命に説明しようとしても、

「またおかしなことを言い出した」

って笑うばかりで。

なぜ周りの人は不思議にならず、「そうだ」と理解してるんだろう?

聞いても答えてくれないし、返ってくる答えは全部、そういうことじゃないものばかりだったから、さらに不思議だった。


‪「なぜ勉強するの?」って問いに、「役に立つから」って答えるのと同じくらいのとんちんかんで素っ頓狂な答えなんだよ。‬


‪本当によくわからなかったなぁ。‬
‪私の世界に必要のないものは「知っておくべき」というのに、私の知りたいことには誰一人と応えてくれなかった。
‪私の心にある本質をわかろうとする人はいなかった。そして悲しいかな、私も喋れなかった。‬

 

‪みーんな頭が悪いのかと思っていたら、頭が悪いのは私だという。‬
‪ビックリ!(笑)‬
‪今はわかるんだよ。通り一般の価値観があって、物の把握の仕様というのもあって、それが楽だから大多数は従ってる。個々では疑問に思っていても。

 

自分が生きていくのに必要な衣食住を総て一人だけで賄おうとするのは大変だろう。それと同じで、総ての言葉や総ての物を一人だけで分類するのは大変だもの。先人の智慧を借りられるのは大変に有り難い。


でも‪私の場合は、わかることがないのに、同じも違うも分類などできず、判断できないから従えないに過ぎなかった。‬

毎回、本当に同じなの?と確かめずにはいられなかったから。
‪これは憶測だけど、きっと他人も、わかることがない状態で、決まりとなっている分類に従っているだけだ。‬


‪従うことで、理解ができるようになる。従わないものには、その世界を垣間見ることも適わない。‬


‪わからないのに従えるのは、全面的に信頼できる人や心を聞こうとしてくれる人がいてくれるからだ。‬
‪まず「やってみよー」って思えるのはとてもとても幸運で幸いなことなんだ。‬


‪従わないこともまた、一つの理解の仕様だけれど、そうして死んでしまう人のなんと多いことだろう。‬
‪でも、苦しみながらでも生き続け、従わない方法で世界を理解できるようになる人達もいる。そういう人々は、世界の分類の方を変えてしまうことがあるんだろう。‬


‪と、今の私は理解している。‬
‪だけど、私の「問い」が消えるわけじゃない。そして今は、これは自分で自分に説明していくしかない類の問題なんだってことを、うすうす感じている。‬
‪せめて、この、問いを立てられたなら。‬

 

私の秘密
‪世間の価値観に従いながら、自分の中にある意味の分類をすることを覚えたこと。‬
‪それには、自分で考えるより他ない。‬


Twitterは、本当に有り難い。‬
‪読んで下さる人がいて、考えている人がいて、たまに意見を交換して下さる。‬
‪聞いて下さるだけで、心は満たされるのに、さらなる思考のひだを与えて下さる。‬
‪本当に本当にありがとうございます。‬

優しさは返すもの?‬


 ‪昔の私は、貰った優しさを返そうとして、どうしていいのか分からずに焦ってワタワタと変な言動をしてしまうことが多かった。‬

 でも、相手は私から「何か」をひき出したくてしている訳ではないんだと、ある時、気がついた。‬

 その前は、何か目的があると思った方が気が楽になるから、何が望みか探りを入れたりして、逆に相手の気分を害してしまうことばかりしていた時期もある。‬
‪ その度に自己嫌悪して、その度に自分を責めても、全然、人間関係は上手くいかなかった。‬
 ‪( いや、今も上手くとはいえないんだけどさ。。アハハ‬
 ‪増しにはなったかなぁと思ってはいる←だから書いてんだけど )‬


‪ そこで、他人に言いたくなる言葉は全て自らに向いていると思うようにしてみた。‬
‪ 過去の私や今の私、未来の私へ向けて、私が私に伝えたがってるんじゃないかって。‬
 ‪( 自分を変えるのは無理だから、思考の最初にある視点をずらしてみたに近い )‬


‪ そうしたら、私は、誰かの優しさが欲しくて人に優しくしようとしていたことに気がついた。

 でも、それは、ただ喜んで欲しいって単純な気持ちから発していたことにも気がついた。‬
‪ で、相手も同じかもしれないって思うようにしていった。‬


 ‪違う感覚を持っている他人だから同じではない。でも確認のしようがないから、同じかもしれない可能性も違う可能性と同じくらい含んでいる。‬

 自他の境界線を持つことは大事だと言われるけど、境界線が引けるほど他人の情報を持っていないのに、最初から境界線が引けるわけがないんだもの。
 

 ‪私の場合は、同じかもしれないと思った方が行動の決定がしやすかった。‬
‪ あとは、私ならどういう反応が返ってきたら嬉しいだろう?って考えてみるだけだったから。‬
 ‪ぜーんぶ自分基準に考えるやな奴になったけどね(笑)‬

 いい人になるのが目的ではなくて、最初の「ただ喜んで欲しい」って願望が満たされればいいだけだったからさ。‬
‪ でも不思議なことに、自分本意のやな奴になったら人も気楽に接してくれるようになった気がする。‬
‪ ( 類友なんだけど、類友以外の人なら距離を置いてお付き合いした方が互いのためになる。そもそも、類友ではない親しい交友関係って最初の段階でどうやって築くんだろう。そして続くんだろうか。脱線するからここでは掘り下げないけど )‬


 ‪そしたら、見返りを求めていない人の方が多いことにも気がつけた。‬


 ‪あぁ、ただ、笑って欲しいだけなんだなぁって。喜んで貰えたら最高なんだなぁって。‬
‪ そこには誰の犠牲もなくて、笑いたいから笑ってる人達がいた。‬

 

 ‪優しさは返すものじゃなくて、ありがとうって貰うものなんだなぁって。‬
‪ 嬉しくなったら、また喜ばせてあげたくなる。

 湧き上がる感情を満たすために、喜んでくれそうなことで、自分にできることをする。‬
 ‪その連続なんだなぁって。‬
 ‪貰ってくれたらこんなに嬉しいことはないし、どんなことなら嬉しいか聞いて次を考えればいいしね。‬
 ‪( この考える時間がまた幸せだったりする )‬


‪ いらないって言われたら悲しいし、それまでだけど、昔の私は素直に人の好意を受け取れなかったなって思えば、余計なことしてごめんねって引き下がれるようにもなった。‬


‪ して貰ったことは返すギブアンドテイクは、人との付き合いでは欠かせない要素だけれど、そこに「喜んで貰いたい」って自分の意思を確認するだけで、儀礼ではない関係が始まると思う。‬


 ‪「喜んで貰いたい」がないなら、それは儀礼の関係だから、冠婚葬祭・マナー本に則って失礼のないように振る舞えばいいだけだもの。‬

 

 返す優しさなら儀礼で、受け取るだけで喜ばれる優しさには笑顔を。‬

スイカの想い出

 

 「おばあちゃんは、ママのことが嫌いなの? 」
 叶ちゃんは、おばあちゃん家の少しざらついた縁側に座ってそう聞きました。
 縁側の下で、叶ちゃんの足がぶらぶらしています。
 叶ちゃんの言葉に、おばあちゃんはスイカを食べる手を止めました。
 セミの声がいっそう煩く耳につき、見上げた空の青さが大きな雲をより白くしていました。

 

 パパのおばあちゃんの家は東京の外れにあります。叶ちゃんの住んでいるアパートからは、車で一時間位のところでした。
 叶ちゃんは、うんと小さい頃からパパと離れて暮らしていました。
 それでも、叶ちゃんはママと暮らすことに不自由も寂しさも感じたことはありません。
 会いたいと言えば、こうしてパパのおばあちゃん家にいつでも来て、パパにも会えるからです。
 そして毎回、パパもおばあちゃんも、叶ちゃんに会うのをとても楽しみにしてくれていました。
 叶ちゃんも、パパとおばあちゃんと会うのは嬉しいことでした。特に、おばあちゃんの家は、庭も縁側もあって、いつもどこかにワクワクを隠しているような気がして大好きな場所でした。
 ただ一つ、なぜママはいつも一緒じゃないんだろうって思っていました。
 今日だってママは、叶ちゃんをおばあちゃんの家の前で車から降ろすと、出迎えたおばあちゃんに一言挨拶しただけで、そのまま帰ってしまいました。
 いつも遅れて来るパパはおばあちゃん家で叶ちゃんと一緒に過ごした後、叶ちゃんをアパートの前まで送って、ママに会うこともせずに帰ってしまうのがお決まりでした。

 

 綺麗な三角錐をしたスイカがまだ二つ、お皿に盛られています。
 おばあちゃんの手の中のスイカは、一口齧られた痕をそのまま残し、叶ちゃんの持っていたスイカはうっすら赤い皮だけになっていました。
 おばあちゃんは、新しいスイカを一切れ叶ちゃんに手渡すと、
 「そうねぇ」
と小さく息をつき、逆に叶ちゃんに聞きました。
 「叶ちゃんは、大好きなお友達が悲しい顔をしてたらどう思う? 」
 叶ちゃんは、お友達のあおいちゃんの顔を思い浮かべてから答えました。
 「どうしたんだろうって思うかな」
 すると、おばあちゃんはニッコリ笑って、
 「おんなじよ」
と言いました。
 叶ちゃんは首を傾げて、おばあちゃんの顔を覗きました。とても優しい目がそこに溢れていました。
 「おばあちゃんは、叶ちゃんが大好き。悲しい顔をしてたら、心配で、おばあちゃんは眠れなくなっちゃう」
 そう言うおばあちゃんの言葉を聞きながら、叶ちゃんは心許なくコクリとしました。
 おばあちゃんはそんな叶ちゃんをみながら、また質問しました。
 「叶ちゃんは、ママのことが大好きでしょう? 」
 「うん」
と、今度は自信を持って、叶ちゃんは強く頷きました。
 「ママが悲しい顔をしてて、叶ちゃんも心配でよく眠れなくなっちゃったら、おばあちゃんも心配で眠れなくなっちゃうのよ」
 そのおばあちゃんの言葉になんだかくすぐったくなって、叶ちゃんは、
 「みんな、眠れなくなっちゃうね」
と、小さく笑いました。
 おばあちゃんも、くすぐったそうに笑うと、
 「だから叶ちゃんが大好きなママには、笑っててもらわなきゃねぇ」
と言いました。
 叶ちゃんは、
 「じゃぁ、あおいちゃんは? 別に、あおいちゃんが悲しくても叶は眠れないってほどにはならないけど、でも、叶がそれを悲しいって思ったら、おばあちゃんも悲しくなるの? 」
と、不思議に思って聞いていました。
 おばあちゃんは、食べかけのスイカをお皿に戻すと、叶ちゃんの空いた手を包み込むようにして言いました。
 「あなたが大切に思う人は、おばあちゃんにも大切な人になるわね」
 そんなおばあちゃんの手は柔らかくて、しっとりしていました。そうして、叶ちゃんの手がペタペタしてるのに気がつくと、
 「布巾、布巾」
と言いながら台所へ取りに行きました。

 

 縁側で、叶ちゃんの足がぷらぷらしています。
 叶ちゃんは、手にしたスイカに勢いよくかぶりつくと背筋を伸ばし、ぷっと種を飛ばしました。
 サクラの幹から、ジジと大きく蝉が鳴き立ちました。
 飛び去った蝉を見ようと急いで縁側を降りましたが、もうどこにも見当たりませんでした。
 そして、
 ( 一緒じゃなくても関係ないんだ )
と、目で蝉を探しながら思いました。
 サワサワと葉を揺らし、叶ちゃんの背中を風が通り過ぎていきました。
 空へ向かってもう一度、ぷっと飛ばした種も、どこへ飛んだのか見えなくなりました。
 いつの間に戻ったのか、布巾を手にしたおばあちゃんがそれを見ていて、
 「来年、庭のどこかで芽が出るかもしれないわね」
と、嬉しそうに笑いました。