世界はここにある

世界はここにある。
私はここにいる。
どんなに知識をかき集めても、私の頭で理解できることには限度がある。諦める訳では無いが、日々を生きていく上で、知識は日々増大していくのだから、私がそこに追いつくことはないだろう。だから、私がはっきりと確信し、自覚できることは「世界がある」ことと「私がいる」これだけだ。
誰かが見ている夢かもしれない。誰かの中にある意識の一つにすぎないかもしれない。それでも、私の意識が続いているうちは、私はここにいるし、世界はあるのだ。
わかるうちの中で、私は、私の真実を打ち立てようと思う。
世界には私だけではなく、約70億人の人が住んでいるという。そんな数字はただの書き換えられていく知識にすぎない。私が生まれて此の方、私の記憶にある人達が私にとっての他人である。触れて確認はできるが、その人達の思考を覗きみることは叶わない。せいぜい、共に過ごした日々の断片でしかない。そしてその人達はその人達で、それぞれにそれぞれの理を持って過ごしている。その証明は、いつでも私にはない想定外の考えを私に提示することで、私の妄想によるものではないといえる。
そういう意味でも、私の真実が誰かの真実になることはないと思う。それでも、私は自分のわかることの精一杯で、自分にとっての真実が打ち立てられればと願う。
ソクラテスはいう。「いくつかの基準は絶対で、いつでもどこでも当てはまる」と。私は、基準に絶対などなくて、いつでも社会に内包されたものだと考える。だからまずは対比しながら、本当に「いくつかの基準は絶対で、いつでもどこでも当てはまる」のかを検討していく。
その前に私の考える「絶対」について書いておこう。
私の「絶対」は、繋がる生命においては絶対だと考えている。生命を「意思」と置き換えてもいい。
宇宙の始まりを考える時、デモクリトスがいうように、無からは何も生まれない、何もなくならないと私も思う。分割できる最小がどこにあるのかもわからないままだが、最小はある。例え0に近い最小でも、値が0になることはない。バラバラになった先で、何が起こるのか。「繋がる」のだ。物質が意思を持って繋がる。デモクリトスは、魂の原子があると考えたが、私は意思(もしくは感情)も光のような物質として存在するのだと考える。
神社や神殿など、多くの祈りが捧げられてきた場所で何かを感じることがある。大切にされた家や物にも、何かを感じることがある。別の物質として意思もしくは感情が存在していると考えれば、そうした事象から、そう考える方が理に適う。
この、「意思」そのものが生命を生む。意思は、「繋がる」と「生きる」しかないとしたら。もしくは、生きる意思に動くと繋がり、死ぬ意思になると離れるのか。逆もまた然りで、繋がる意志が生きるになり、離れる意思になると死ぬのか。これはまだ考える余地があるものだ。
そして、この意思によって、宇宙は収縮と膨張を繰り返す。何と何が繋がるのかはその時の意思次第なのだから、その時、その時で未来は永劫に変わり続ける。しかし、この意思や最小の原子は永遠に残り続ける。
絶対があるのだとしたら、この「意思」だと考える。(意思を「神」に置き換えてもいい。言葉はわかりやすさの説明でしかないのだから、その時、その時代、その人の一番解釈しやすい言葉を当てはめればいい。言葉の向こうにある概念さえ理解されるなら記号は何でも構わないのだ。)
ソクラテスへ話を戻そう。
感覚が生きるための正しさを示すとしたら、理性は社会で生きるための正しさを示す。
なぜこんなことを考えたのか。
赤ん坊はまだ理性を知らないと思えるからだ。にも関わらず、生きる上において正しい方へ、生き残るための方法を自らとるように思う。まだ理性が発達していない人間が、すべてにおいて間違うわけではないのは、感覚が、生きるための正しさを補っているからではないかと考えたのだ。
では、理性でいう正しさが求められるのはどこでかと問えば、社会においてだ。この、社会で生きていくための正しさに、絶対いつでもどこでも当てはまる何かを想定しても、その社会が求める正しさはその社会によるのだから、やはり理性における正しさは求められない。
絶対いつでもどこでも当てはまる正しさは個の感覚にあり、理性が発達するほど社会に依っていくのだから、プタゴラスの「正しいに絶対的な基準などない」とする考えも、ソクラテスの「いくつかの基準は本当に絶対でどこでも当てはまる」とした考えにも肯ける。プタゴラスのいう「絶対的な基準がない」正しさは理性にあり、ソクラテスのいう「絶対でどこでも当てはまる」正しさは感覚にある。
理性とは、感覚によるものを言語化していく過程で養われる。そして理性とは、言語化されることにより世代を超えて「確かな知」として蓄積されていくものだから、人の命と文明が続く限り残り続けるものだ。感覚は個の肉体に付随するものであるから、形を変えて分散していく。だからおよそ人の感情や想いや感覚の衰退は、多少の違いこそあれ似たり寄ったりなのだ。意思は、散り散りになった物質に付随していくのだろう。
私の考える「正しさの性質」はこうだ。
片側に「生かす」があって、片側に「殺す」があると想定する。ベクトルでいえばどちらに向かって動くエネルギーなのか、であり、その方向によって正しいのか正しくないのかを感じとる。
それぞれの正しさは複素数のような盤面にあり、それぞれの点で自由にそのエネルギーを発している。「生かす」と「殺す」と書いたが、「光」と「闇」、「喜び」と「怒り」、「生」と「死」でもいいだろう。そのエネルギーがどんなものであれ、恨みや妬みや憎悪であろうが、生かす方向にベクトルが動いたなら人は正しいと認識するのではないか。
ソクラテスはさらにいう。「正しい認識は正しい行いにつながる。間違ったことをするのは、それがあまりいいことではないと知らなかったからであり、もっとよく知ろうとすることは大切である。頭をはたらかせる能力は自然に備わったものであるのだから、人は理性(頭脳)を使えば真実を理解できる。その真実は自分の中から取り出されるものであり、自分の中から生まれた知だけが本当の理解である。」
個々の真実は、きっとソクラテスのいうように、それぞれがそれぞれに導き出すものなのだろう。導き出されたその知恵により、現在の社会が成り立っている。
より知りたいとする心は正しい。
理性を用いて考えることは正しい。
感覚からその理性を用いて言葉にできた時、より理解は深まるのだろう。そして共有することにより、社会はより正しい方向へと進むに違いない。