「何か」とは何か

何かがあると思った。
自然には、何か普遍になるような、何かがある。
その時には既に神という概念があり、様々な物語が伝えられていた。が、神はひとつではなかった。
そこへ、普遍となる何かと神が結びつき、社会はその頃すでに誰かが支配する形態を取り始めていて、一神教が生まれたのだとしたら。物語とも結びついて、人々がより具象化しやすくなる。
徐々にゆっくりと、その具象化された物語に、自らの考えをすり合わせようとしている。
そんな時、また、その方法では「何か」にたどり着くことはできないと言い始める人がいて、「何か」とは「何か」について思考を巡らし、自然を観察し、あらゆることを分類し、分析が始まる。
人を、つまりは自分をも、思考し観察し分類し分析するようになり、自らの中にそれぞれの真理を打ち立てる。
それが書物として残る。
その時々の賢いとよばれた人の考えを後の人がまた学び、その自らの中に新たな真理を打ち立てる。
繰り返され、積み上げてきた。

自らの中に真理を打ち立てた人は、それを他人へ伝える時に、自らの言葉を使う。
この自らの「言葉」と、他人が理解する「言葉」が違うことに気がついた人々によって、「言葉とは何か」についての議論が始まったのではない。

西洋の場合は、まず、「何か」を「神」とした。神への道があり、その神への道を指し示すものが教典に書かれた神の言葉だ。
そしてまず、「神」そのものの捉え方について議論がされた。神はひたすら信じるべきものなのか、考えるべきものなのか。
そこで、神の「言葉」を真として、これまでに筋道立てて考えられてきた「言葉」には、矛盾があるのかないのかを検討しはじめた。(「何か」が先にあるはずなのに、「神」が先であると考えたのだ。そうすると、神とは「目標」であるといえる。そこに至る「見通し」が真理とされた。目標に向かって真理を探求しているのに、その目標自体が既に真理として存在していれば、純粋な探求とはならない。その道にたどり着きそうもない真理は捨てられる。いずれは、真理は既に存在しているのだから探求自体がばからしくなる。信じれば救われる世界となる)。
そうして、神の「言葉」と筋道立てた「言葉」は矛盾しない、となり、思考し観察し分類し分析することはむしろ「神」をより知ることのできる手立てだとした。
そして、「神は存在するのか」から問い始める。(「神」とはもともとが「何か」であり、まずはその「何か」は存在するのかと問いはじめたともいえる)。
神つまり「何か」はあると信じることが真理探求の前提とした。(それはそうだろう。「何か」があると思わなかったら、探求自体がはじまらない)。
それにより、信じることと、考えることを分けての探求がはじまる。
そうして「普遍は存在するか」の問いが議論された。この過程で、実在、存在、唯名、概念、記号、認識、意識など、「言葉」とは何かが問われはじめる。(私にとっては、「何か」はあると思いたい。そして、「何か」とは何かを常に問うているのだから、この言葉とは何かという問いにはあまり興味がわかない。なんでもいい。言葉は記号で、世界に現実として在る物が実在で、私の頭にあるものは概念として存在している。だから「何か」も存在している。が、ここで存在してしまうと、それこそ純粋な探求にはならなくなるので、存在はしているが概念のないものになる)。

 

とりあえず、ルネサンスに入るまでの思想の流れを追いながら、自分なりの感想を記した。

そして私は、「何か」があるとは思うが、世間一般の神は信じていない。

真理はその「何か」を求める中で顕になる。つまり、道程が「真理」と考える。

私の道程にある「真理」と、他の人がいう「真理」が一になることはないが、共通項はあるだろう。

そして、その「真理」は、自らに問わずして得られるものではないと考える。