「初夢ならぬ、年末の夢」

 それは白昼夢だった。

 旦那と楽しく語らいながら自転車を走らせていると、突然、傍らにそいつがやってきた。
 「死神です」
と丁寧にお辞儀をする。
 旦那は気がついていない。
 私はすぐに、頭の中の妄想が始まったのだと思った。なぜなら、私は旦那と全く違う話で盛り上がっているのだから。
 「確かに、クリスマスに食べたローストポークは美味しかったね」
と旦那に答えつつ、(おいおい、私、大丈夫か?)と軽く頭を振った。死神と名乗る奴は気にする風でもなく、勝手に話を進めていく。
 「私のことは誰にも話せません。また、あなたをいつ連れて行くのかもお教えできません。やり残したことはございませんか?」
と言い終わると、静かな笑みを称えているばかりだった。
 少しこの妄想に腹が立ったので、旦那に話して終わらせてやろうと思った。
 「世間じゃチキンなんだけどな。さすがに食べすぎたから、正月に肉はいらないな」
と旦那はまだローストビーフならぬローストポークの話をしている。私はおもむろに切り出した。
 「全然話は変わるんだけど、もし突然、……突然……。思いついた話があるんだけどさ、奇妙な奴が突然……」
 言葉が継げなくなった。
 催眠術にかけられた人をテレビで観たことがある。
 「あなたは今からトマトと言えなくなります」
と術師にひゅっと言葉を吸い取られる仕草をされた後、
 「これは何ですか?」
とトマトを指されても、口を開けるばかりでその先が出てこない。
 そんな状態だった。
 「え? なに」
と、旦那は振り返った。
 私は自分の妄想した死神と名乗る奴に、つまり自分で自分に術をかけてしまったようだ。自分の妄想を睨み据えながら、
 「吸血鬼! 」
と叫んでみた。言えた。旦那はわけがわからない顔で、
 「は? 」
と問うてくる。
 「だから〜、突然、私は吸血鬼ですって言う奴が現れたら信じる? 」
 誤魔化すように次穂した。この手の話は旦那も好きだから、わけなく誤魔化せたようだった。旦那は、肉の話など忘れて答える。
 「信じない」
 「だよね〜。じゃぁ、悪魔だったら? 」
 「なんか証明してみせてよっていう」
 私はこれみよがしに、死神と名乗る奴へと視線を投げた。奴は静かに笑っているままだ。
 すると私は勝手にこんなことを旦那に話していた。
 「証明はできませんっていうの。でも、オーラが違う」
 私は、はっとして死神と名乗る奴をみた。しっかりと。
 「オーラ? どんな格好をしているの? 」
と旦那が聞く。
 私は、懸命に捉えようとした。けれど、言葉にしようとすると逃げていくようだった。仕方がないから、
 「んー。世間一般の格好はしていないけど、品がいいのだけは解る。だいたい、男なのか女なのか、子供なのか老人なのかもわかんない。ジェントルマン、かな」
と言うと、死神は一礼した。そして、
 「やり残したことはございませんか? 」
ともう一度、私に聞いた。やっぱり品がいい。
 旦那は、
 「なんだ、それ」
と言うと、
 「願いは叶えてくれるの? 」
と聞いてきた。もちろん私になのだが、死神がこくりと頷いた。私は、
 「叶えてくれるけど、いつかはわからないってさ」
と言えば、旦那はまた、
 「なんだ、それ」
と言った。
私は、観念したように、
 「でも、本物だって解るんだよ」
と答えた。
 死神はまた一礼した。
 さっきのは「お褒め頂きありがとうございます」で、今のは「解って下さって幸いです」と言われたようだった。ふと、信じないままの人もいるのだろうか、とか、私には仕立てのいい服を纏っているようにみえるだけで他の人には違うようにみえたりするのかもなと、とりとめのないことが次々に頭を過ぎていった。
 「まず、願いを無限に叶えてもらうようにするじゃん」
と、旦那の声で我に返る。
 「ひとつだけね」
と答えた私に、
 「え〜、なんでダメなんだよ」
と、旦那は文句をつけた。いつもの「もしも〇〇だったら」遊びのひとつだと思っているのだから、それも当然だ。そんな旦那の背を見ながら、私はやり残したことについて考えていた。
 いつかはわからないと言う。
 今、この瞬間に、自転車を滑らせて死ぬのかもしれないと思ったら、慎重になった。スピードがゆるくなり、旦那の声がいつの間にか聞こえないほど離れていた。それでも慎重に、自転車を降りて横断歩道を渡る。そんなことをしてる間に振り返りもせず旦那は行ってしまい、その先の角を曲がったのだろう、姿も見えなくなってしまった。
 私は少しスピードを上げながら、注意だけは怠らずに角を曲がると、そこに旦那が待っていた。いつもなら置いていくなんてひどいと文句を言うところなのだけど、口から出たのは、
 「ごめんごめん、横断歩道を使ったものだから。待たせちゃったね」
だった。
 旦那は、笑って「いいよ」と言った。
 私は死神に言った。
 「ちゃんとありがとうって伝えたい」
 すると旦那は、
 「伝わってるよ」
と言い、死神は、
 「承りました」
と言うと、すぅっと去っていった。
 不思議な、本当に奇妙な出来事だった。

 

 夜、布団に入り、昼間のことを思い返した。あれは、やっぱり私の妄想にすぎないことだったのだろう。ちゃんと「ありがとう」が言えるようになりたいという、私の願望の現れだ。
 「ありがとう」を伝えることは難しい。それは、言葉ではないからだ。
 あの死神が一礼をしただけで、言葉なく想いを伝えたように、ありがとうは細々とした日常に、仕事に、動作にある。
 まめまめしく働きたいなと、だから思った。「ありがとう」を伝えるられるように。
 私の今年の抱負である。
 そして、ちゃんと死ぬ。それまで、死神は待っていてくれるだろう。