仲良くするってなんだろう

うちの家族は仲が良い。それは互いに別な考えを持っているから、違う考えの話に触れる時は、「へぇ」で流していく。興味を持った時だけ食いつく。相手の意見よりも自分の意見を述べて満足する←たまに聞いて貰えないことの多いコトが「ルサンチマンだっ」と怒る。最近覚えたルサンチマンを言いたいだけだったりする。
私の実家は、仲は良かったんだろうけど、居心地は悪かった。多分、自分の意見が自由に言えなかったから。←正しいこと。崇高な志であること。後ろめたい気持ちのないことだけが認められるから、清水に棲む魚のようで苦しかった。親は、自分達の濁になる部分をどう受け止め流していくかの答えを、とにかく感謝と謙譲に求めたんだと思う。古来よりの道徳や献身が身を助けると思っていた。でも行動が伴わなくて、苦しんでいるようにみえた。「ありがたいねぇ」と言いながら心の中は不満と不信だらけで、「ありがたいと思わなければいけないからありがたいと口にする」ようにしかみえなかった。
確かに、両親が教えてくれた道徳と謙譲は、私の身を助けてくれるものだったし、その心を教えてくれたことは宝だ。でも、心からそう思えるのは、私が不満をきちんと言葉にして、伝えたい相手に届けて、やっと想いを葬ることができたからだと思う。気持ちを手放すとはこうしたことを指すのだろう。不満だけでなく、思ったことの内、本当に伝えたいことを伝えるのが大切なことだと学んでいる。相手に伝える前に、これを言ったら嫌がるか、喜ぶかを、私が決めることではないんだなぁと。いつでも返ってくる相手の想いを受け止めることができればいいんだ。
そうして自らの家庭を築くようになって、私は両親の築いてきた土台の上に、旦那の両親の築いてきた土台を学びながら、試行錯誤を繰り返しつつ自分の家を建てている。
ひとつ見出した答えは、どんな感情も、誰もが自由に発露できる環境を整えておくこと。それには、互いに相手の感情に引きずられそうになるから、共感して欲しい時、助言が欲しい時、共感はいらないから耳から流して欲しい時を細々と伝えることだ。
具体的にいえば、ありがとうとごめんねが潤滑油になる。褒め言葉というよりも、私はそうしてくれた方が嬉しいと伝えておくと、相手もそうしやすい。それだけの話が難しく感じるのは、自分自身を掴みきれなかったりするからだ。何が嬉しく、何が嫌なのか、その時々によって変わってしまうことなら、流してしまっていいんだなぁって。互いに楽しみながら流せるならそれが一番いいよねぇ。
結局は、感謝と謙譲になるんだけど、そこに至るまでの過程を大事にすることだったんだなと今は思う。先に感謝と謙譲を目指して歩くのではなく、結果としてそこに感謝と謙譲があったらいいねなんだろう。
同じでなければいけないではなく、同じを目指すのでもない。空間を共有するには、それぞれの居心地の良い場所があるのが前提で、境界線をある程度設けておいた方が生きやすいんだろう。きっちり、はっきりしすぎても苦しくなるのは、変化に対応できなくなるから。なんとなくの曖昧さが、葛藤と面白さと楽しさの生まれる場所になる。
仲良くするっていうのも、互いの居心地の良さが確保できた場合に訪れる幸いであって、目指すものではないのかもしれない。