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‪許す許さないの話

なぜ私が「許さない」ことはあった方がいいと思うのか。それは誓いだからだ。
許してしまえば、その行為を自分にも許すことになる。私がされて嫌だと思ったことを、誰かにした時、嫌だと思った私を否定するように感じる。

 

さて、この感じるを、もう少し掘り下げてみよう。
本当に否定することになるのか?

 

私がされて嫌だと思ったことを簡単に説明すると、仲間外れが嫌だった。

けれど、仲間外れになるにはなるだけの理由があった。

転校生であったこと。
相手の感情を理解しようとしなかったこと。
正論で相手を傷つけていたことに気がついていなかったこと。
人は感情に任せて愚かな行為をしてしまうことがあることを自分も含めて知らなかったこと。

 

一つづつ、許されないことは何だったのかを考えてみる。

 

転校生であったことは不可抗力だ。
知らないもの同士が付き合おうとすれば歩み寄りがあるが、知る必要のない(もう既にコミュニティが出来上がっていて、無理をする必要がない)相手にしてみたら知ろうとする行為自体が大きな大きな心の隔たりであることはどうだろう。そもそも、人と付き合う時に、無理をしてまで付き合う必要はない。知らない人と付き合うのは何にせよ心を遣う一苦労なのだ。その一苦労を、割こうとすること自体が有難いことなのだ。
無理をしてまで付き合う必要がない人達の中で暮らす疎外感を抱く私の感情も自然な感情の流れだったけれど、無理をしなければ知りえない仲間を迎える側の感情も自然発生するものだった。
つまり、不可抗力である。


問題はここからだ。
嫌だと思う相手、感情を傷つけられた相手には、自分も嫌な人間になっていいのか。
私はここで否という。
関わらない。これも一つの付き合い方だ。けれど、挨拶、必要不可欠な連絡まで「しない」というそうした関わらないやり方は否だ。
挨拶は存在の肯定であり、挨拶がないのは存在の否定だからだ。必要不可欠な連絡は、公共性を帯びる社会において、それこそ存在の否定になるからだ。
存在の否定は人権侵害である。だから、これを許す理由にはいかない。許してしまえば、人権を侵害してもいいことになる。感情云々の前に、社会が成り立つ大前提のルールだ。ルールだから人権侵害が許されないと言いたいのではなくて、人権侵害が許される社会は歴史上をみれば一般庶民がかなり切ない社会制度で生きていかなくてはならなくなる。存在が否定されるのが当たり前の社会は、悲劇ではなく悲惨極まる。


そしてこれは正論で、振りかざせば人の感情を傷つける。人の感情を傷つけることも人権侵害である。この正論に傷つく感情は加害者のそれであり、そんなものは傷つけばいいんだと思わなくもないが、やはりそれを認めてしまえば私が矛盾する。整合性のない論理は破綻する。


ただ、嫌な人間、徹底的に距離を置きたい人間は誰にもいるもので、そうした人間とは挨拶もしたくないという感情は理解できる。故に、挨拶をしない愚かな行為も、してしまうことはある。身近で言えば、喧嘩をしたばかりの伴侶には朝の挨拶もしたくなくなるものだ。
でも、私は、どんな時も挨拶する。目を合わせたくない相手にも、挨拶はする。
なぜなら、私が私自身に、「挨拶をしない行為」を許していないからだ。

私は自分を嫌いになりたくない。

ただそれだけの理由である。
例えば、この「挨拶しない行為」を許すとする。腹が立ったら挨拶をしない私を許すとしても、ちっとも楽しくないし、ちっとも褒められないし、ちっとも楽にはならない。ただ、私の胸が疼くだけだ。

これがたぶん冒頭の、私が私を否定するような気がする正体だ。


そうして、あくまで私のではあるがその正論で許されない行為と、感情面でも許したくない行為が合致するなら、そもそも許さないでいいじゃないかと思う。
この正論。きっと、人には人のロジックの組み方があって、色々な正論があるんだと思う。そして感情面でも許したくない行為がそれぞれにあって、それが合致する時、人は「許せない行為」としてそれを自分に課しているんじゃないのか。
そしてこの「許せない行為」を自分に課しているからこそ、人は人に優しくなれるし、愚かさも許せるようになるんじゃないかと思う。許せない行為には、必ずそれをしてしまう人の心理が見え隠れするものだから。

逆にいえばそれが手厳しくなる要因にもなる。

 

じゃぁ、なんでもかんでも許してしまえばいいのか。と言えばそんなことはなく、すると、自分を見失うんじゃないだろうか。少なくとも私は見失う。
自分を大切にって思うなら、「許したくない」その気持ちはうんと大切にするべきだ。人権の観点からみても、感情面からみても。


許したくない気持ちを大切にしながら、人の愚かさも許せるようになれたら、手厳しいその手にも優しさを持てるようになるんじゃないか。


ごめんなさいという言葉はなぜあるかと言えば、私は、許してもらうための言葉ではないと考える。
許されない行為を、許されてはダメだからだ。許されてはダメだから、次は行動に歯止めがかかるのだ。
では何に謝るのかと言えば、愚かさにだろう。

そして、誰もが持つ人の愚かさは迎えられるものだ。

愚かさを迎えるからこそ、対策も打てるようになるのだ。