独りにみえて、独りじゃないよ
小学2・3年生の頃、時間がよくわからなかった。
「なぜ、今日が昨日になって、昨日になる今日が明日にもなるの? 」
曜日も、
「なんで、今日が火曜日なの? 水曜日になることもあるのに?? 」
と、なぜ色々なことが既に決まってしまっているんだろうと、不思議で不思議で仕方がなかった。
目安でしかないことを知らなかったから。
まるで、同じではないものを同じにして、同じだと思うものを別にしているようにみえていた。
だぁれも、分類に必要な視点を教えてくれる人はいなかった。
そしてその視点を教えてくれることがあっても、それはよくわからない誰かのものであったから、理解し難いものだったのは当然である。
たどたどしい口調でそれを、親や兄に懸命に説明しようとしても、
「またおかしなことを言い出した」
って笑うばかりで。
なぜ周りの人は不思議にならず、「そうだ」と理解してるんだろう?
聞いても答えてくれないし、返ってくる答えは全部、そういうことじゃないものばかりだったから、さらに不思議だった。
「なぜ勉強するの?」って問いに、「役に立つから」って答えるのと同じくらいのとんちんかんで素っ頓狂な答えなんだよ。
本当によくわからなかったなぁ。
私の世界に必要のないものは「知っておくべき」というのに、私の知りたいことには誰一人と応えてくれなかった。
私の心にある本質をわかろうとする人はいなかった。そして悲しいかな、私も喋れなかった。
みーんな頭が悪いのかと思っていたら、頭が悪いのは私だという。
ビックリ!(笑)
今はわかるんだよ。通り一般の価値観があって、物の把握の仕様というのもあって、それが楽だから大多数は従ってる。個々では疑問に思っていても。
自分が生きていくのに必要な衣食住を総て一人だけで賄おうとするのは大変だろう。それと同じで、総ての言葉や総ての物を一人だけで分類するのは大変だもの。先人の智慧を借りられるのは大変に有り難い。
でも私の場合は、わかることがないのに、同じも違うも分類などできず、判断できないから従えないに過ぎなかった。
毎回、本当に同じなの?と確かめずにはいられなかったから。
これは憶測だけど、きっと他人も、わかることがない状態で、決まりとなっている分類に従っているだけだ。
従うことで、理解ができるようになる。従わないものには、その世界を垣間見ることも適わない。
わからないのに従えるのは、全面的に信頼できる人や心を聞こうとしてくれる人がいてくれるからだ。
まず「やってみよー」って思えるのはとてもとても幸運で幸いなことなんだ。
従わないこともまた、一つの理解の仕様だけれど、そうして死んでしまう人のなんと多いことだろう。
でも、苦しみながらでも生き続け、従わない方法で世界を理解できるようになる人達もいる。そういう人々は、世界の分類の方を変えてしまうことがあるんだろう。
と、今の私は理解している。
だけど、私の「問い」が消えるわけじゃない。そして今は、これは自分で自分に説明していくしかない類の問題なんだってことを、うすうす感じている。
せめて、この、問いを立てられたなら。
私の秘密
世間の価値観に従いながら、自分の中にある意味の分類をすることを覚えたこと。
それには、自分で考えるより他ない。
Twitterは、本当に有り難い。
読んで下さる人がいて、考えている人がいて、たまに意見を交換して下さる。
聞いて下さるだけで、心は満たされるのに、さらなる思考のひだを与えて下さる。
本当に本当にありがとうございます。