「太陽の子」(灰谷健次郎 理論社刊)を読んで

「もし、わたしが たった一つ、あなたに語りかける言葉を持つとするなら、あなたの悩みや苦しみは、あなたの父や母、そして、あなたの「生」につながるたくさんの「死」が、同じように悩み苦しんできたということを忘れないように」

 

「たいていの人間は得手勝手なもんや。おとなのことばでエゴイストっていうんやけど、人間が自分ひとりの欲のために、それぞれ勝手なことをしている世界は、冷たいもんや。……おひとよしは人にだまされたり、損したり、貧乏したり、つまり、ろくなことはないけれど、エゴイストにはない、なんかがあるやろ。なんかいうたらなんやいわれたら困るけど、おれみたいな人間でも生きとってよかったなあって感じるぬくーいもんや。人をはげましたり、人をやさしい気持ちにさせたりするなにかや」

 

「生きている人だけの世の中じゃないよ。生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持ちを持つことができるのよ、ふうちゃん」

 

「勇気いうたら警察で暴れたりさかろうたりすることやない。けんかして勝つことでもない。勇気いうたらしずかなもんや。勇気いうたらやさしいもんや。勇気いうたらきびしいもんや。……山之口獏……
土の上にゆかがある
ゆかの上にはたたみがある
たたみの上にあるのが座ぶとんで
その上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽にすわったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしているように
住みなれぬ世界がさびしいよ
……『座ぶとん』
……人間いうたら自分ひとりのことしか考えてえへんときは不幸なもんや。」

 

「人間いうたらどんなときでもひとりぼっちやとおもとったけど、そやなかった。たしかに人間はひとりぼっちやけど、『肝苦(ちむぐ)りさ』の心さえ失わへんかったら、ひとりぼっちの人間でもたくさんの人たちと暖こうに生きていけるということがわかったんや。」

 

「自分はおとうさんとおかあさんのあいだに生まれてきた大峯芙由子というひとりの人間だと思っていたけれど、自分の生は、どれほどたくさんのひとのかなしみの果てにあるのかと思うと、気が遠くなる思いだった。」

( 本文より 心に残していきたい文をいくつか掲載致しました。 )


灰谷健次郎さんの言葉は、「生きろ」と呼びかけながら軽くこちらを死にたくさせる。それほど重い。
中学生の頃だったろうか。「兎の目」を読んで、あの時の私も、自分という人間がたまらなく嫌になった。
なぜかという理由は書きたくない。書けば、全てが綺麗事や偽善になる。
そう思わせるほど、自分という存在を消したくなる。
その想いを、あえて、書いてみようと思う。

 

綺麗事や偽善という自分の醜く汚らしいところを、私の中にあると認める。
人は醜いし愚かだと、まるで自分ではないように書くのではなく、自分が醜く愚かだと書く。
そしてそれを卑下するのではなく、事実あるものとして生きる。
だって汚いし醜いし、愚かだ。それでも、私は生きている。私の存在は、消えない。逃げようとしても、逃げられない事実なのだから。
良いとか悪いで評価されたり価値付けされたりできないのが、生きるってことだ。
そして、自分が汚いことを認めたくないばかりに目を逸らすなら、汚い自分の方がいい。
綺麗でも汚くてもどちらでもいい、そう思った。
大切なのは、大切にしたいのはそこじゃないから。

ちゃんと整理して、これからを考えていきたい。いけるようになりたい。
(この部分、削除して載せようと思った。なぜなら、これは自分だけが知っていればいいことで、みなにわざわざ読んでもらう必要のない部分だからだ。けれど、あえて消さずに残しておく。掲載するまでの葛藤中、多くのフォロワーさんのツイートに励まされた。さらけ出す勇気をありがとうo┐)

 

「太陽の子」は、沖縄に生まれ神戸で暮らす人々と、そんな父と母をもつ神戸生まれの女の子の話だった。

戦争によって傷ついた人たちがいる。
そしてそれが、尾ひれのように、今も地続きで繋がっている。
それがたまらなく悲しいし、痛い。
沖縄の現状は、基地問題で考えるなら、今も変わらないままある。この物語は1978年に出版されたものだ。それから約40年経ったのに、だ。それだけで堪らなくなった。
そして、オキナワという差別感情が日本の中にあったことを、読むまで知らなかった。
知らなかったということは、少なくとも私の暮らしてきた世界にはなかったということだ。それを、少しは良い方向に変わったこともあると受け取ることもできる。
ただ、オキナワをチョウセンやカンコクに置き換えたとき、いやもっと私の身近なところでいうならテンコウセイやシンザンモノに置き換えたとき、この「太陽の子」に描かれた世界は現実化する。
つまり、人社会は変わっていない。
なぜか。

土地に根付いて生活してきた人の暮らし方がある。新参者は、その暮らし方を教えてもらわない限り、彼らの中に入ることができない。そして、新参者には新参者の、それまでの暮らし方があり、それを一切捨ててしまうことはできない。できないがために、全てを彼らの暮らし方に合わせられない。また、これまでの暮らし方をもってしか、彼らの暮らし方を理解するやり様がないため、教えてもらってもわからないことが多くなる。
彼らは、今までの暮らし方で暮らしているのだから、新参者がその暮らし方に従わないようにしか見えない。また、新参者がいなくても暮らしていかれるがため、新参者を無理して理解しようとしたり、新参者に合わせたりしようとしない。気に入らなければ出てってもらって結構、だからシンザンモノはダメなんだと、平気で切り捨てる。
いつでも、新参者の方が、理解しようとしなければならず、合わせなければならない状況が出来上がる。
この、一方向の力関係が差別だ。

差別は、既存側が、その人の背景を知ろうとしないことから起こる。そして、既存側は、その背景を知る必要性がない。必要性がないから、「郷に入っては郷に従え」と努力を新参者にだけ求めようとする。
本当は、既存側が知ろうと努めない限り差別はなくならないのに。
そうして、既存側は、差別が何かその意味がわからないために、「差別」だと言われても、「区別」だとか、知ってもらう努力はしたのかとか、なんで無理して付き合わなきゃいけないの?と思う。
新参者にしてみたら、知ってもらうには、好きになってもらうしかやり様がなく、ひたすら「役に立つ」ことや「良い人」を目指し、貢献することを知らず知らずに課せられてしまう。

差別は既存社会の問題ではなく、自分にとって好きな人や物事のことだけに理解を示す性が私に潜んでいるからだ。
本当は、関わる全ての人の背景を知ろうとしなければ、すぐに自分自身が差別する側へ回る。
関係性が一方向になっていないか、気を配らなければならないことは疲れる。だから最初から対等に付き合える人と好んで付き合う。つまり、新参者がへりくだる人だと判断した場合、つい嫌煙してしまう。それは、差別のつもりがこちらになくても、新参者にしてみれば同じにみえるだろう。
気をつけてはいても、そういうことをすぐに忘れる。
もっと悪いのは、問題を、社会や人の性にあるよう転化して、個人の、つまりは私にあることを認めない心にある。
あると認めても、苦しさのあまり、自分を嫌いになったり、蔑んだり、責めたりすることで、問題から遠ざかる。あたかも自分が差別について考えているかのように、自分の目を欺いてしまう。
私にあると認める。
苦しさを受け入れる。
すると今度は、ただ理解を示すだけが私にできる最大のことだと知る。
差別に苦しむ人の痛みをただ知るだけで、結局、その人の痛みを取り除く術がない。
私一人がなるべく知ろうとする姿勢を心がけるしかなく、社会に働きかけようとするにもその術がない。
そうして、私の身近な周りの人たちをせめて幸せにするよりないんだと、いつも思う。

沖縄の基地問題は、もっと複雑だ。
オキナワと言われたくないのと同じように、私はヤマトーと言われたくない。
言われたくないが、日本の安全を考えたときに、沖縄から基地がなくなるのを賛成できなくなる。
沖縄が痛みを抱えたままなのを知りながら、
押し付けている。
ヤマトーだ。
思考停止してしまいそうになるけれど、その痛みの背景を知ろうとすることはできる。
尾ひれのように続いている戦争の痛みを、苦しさから逃げるように時代のせいにしたり、仕方なかったこととして片付けない。
沖縄にあったこととそこから繋がる今の現状を、自分に起こったこととそこから繋がる未来に置き換えて捉えてみる。すると、米軍基地が今でもそこにあり続ける痛みの片鱗が少し見えてくる。
そこに、米軍基地がなくなったら生活の糧がなくなるだろうに、とか、お金が欲しいだけだろう、とか、同じ日本人なら全体の安全を考えてみるべきだろう、とか、そういう声を被せると、私の中には怒りが湧く。
沖縄が返還されたときから基地はあり、治外法権としてあり続けた。それでも暮らしていかなければならなかった人々に、共に暮らす方法を考えるより他に何ができたろう。お金を払えばそれでいいのか。日本の安全を同じ日本人なら考えろと言うが、同じだったことはない。沖縄に痛みを押し付けたまま、安全の上に暮らしを立てて胡座をかいてきたのは誰だ。
私だ。私なんだと、苦しい。
その苦しさは、沖縄の人たちの味わってきた苦しさの前で吹き飛ぶ。
そうとはわかっても、日本の今ある安全に組み込まれた米軍基地をなくすことはできるのか。
そこからの知識がない私には判断ができない。ましてや政治家でもない私にできることもない。
知ればただ痛いだけで、心は苦しい。
ごめんなさいと謝れたらどんなにいいだろう。だけど謝ったところで、沖縄に米軍基地がある限り、その痛みは尾ひれのように続いていくのだ。
せめて共に痛めたらいいのに、米軍基地があることで保たれた安全の上で暮らしていくしかない私がその痛みに寄り添おうとすれば偽善になる。
頭を下げる他に思いつかない。
共に日本に暮らす者として、これからの日本の安全をできれば一緒に考えていきたいと願いながら。

痛みを知ることは、自分の今までの暮らし方が変わってもいいことを覚悟させる。
変わらないまま、その痛みに寄り添おうとすることはできないから。
そして痛みを知れば、人として放ってはおけなくなる。何かしてあげたい気持ちになる。それを放って、私は私、その痛みは私のものじゃない、痛みを背負ったものが自分で解決するしかない、と背を向けることもできる。けれど、心は冷たくなる。
それに、本当に痛みを知ると、もう自分が痛い。自分が痛いから、背を向けることも、何もしないでいることもできなくなるのに、できることはほとんどない。
だから、なおさら、人の痛みを知ろうとしなくなる。何もできない自分に失望したくないから。
人の背景を知ることが怖くなる。知っても、できることは何もなく、心だけが冷えていくのを避けるように。
それに、自分の暮らし方もそうそう変えられないし、変わることへの不安と対峙しなければならなくなる。
ここで、境界線を引くことが役に立つ。
自分の痛みと、相手の痛みを混同しないように。自分にできることと、実際に痛みを負った人にできることは明確に違う。
自分にできることは何かを考えられるようになる。
自分にできる限られた中で、一つひとつ模索していく。
すると、知ることが怖くなくなる。
実際に痛みを負った人が、痛みをそのままにすることなく、痛みと向き合っていけるように、見守る姿勢が保てるようになる。
見守るって、結局は、自分の暮らし方を今すぐ変えることなく、相手の暮らし方をゆっくり理解していく時間だ。自然の成り行きに任せるようで、何もしないのと同じにみえるけど、そこで焦らない。焦ればきっと対立するだけで傷つけることがさらに増えるだけのような気がする。かといって変化を頑なに拒むのでもない。
変わるのは、そこへの眼差しだ。
双方にてんでバラバラだった視線を、共に歩んでいけるような未来へ向ける眼差しとなるように、私の視線が変わっていくのだ。
それからだ。
基地がなくなって生活の糧を失うかもしれない人々の背景や、本当に金銭だけで支えられるのか、それが共に歩んでいける未来へ繋がるのか、沖縄も含めた日本に住む人達の安全は基地なしでも現段階で保たれるのか。それらを共に考えていけるようになるのは。


沖縄で何があり、そこに暮らしてきた人々が何を感じてきたのかが啓蒙されていきますように。その時、「太陽の子」に描かれていた沖縄の遊びや、沖縄の人の温かい魂も一緒に、私たちの中で息づいていきますように。
そうしてここに、私のできることを見つける。
もう、その心は、私に根付きはじめているから。
「肝苦(ちむぐ)りさの心さえ忘れなかったら、人は温かく生きていける」
この言葉を、大切に育てていこうと思う。

 

もう一つだけ。
戦争について書いてあるはずなのに、実は人の心にあるものがありありとしてしまう作品が多くある。この「太陽の子」もそうだった。
戦争を振り返ってみるときに、人の性を見せつけられて、それが自分の中にもあると認めないうちに、「戦争」を考えることはできない。
なぜしてはいけないのか、なぜ起こるのか、それは人の性に大きく関わることであり、自分にあるものとならない限り、起こさないために何ができるのかが、偽善になってしまうからだ。
そして、一人で考えても綺麗事にしかなっていかない。
だから、多くの人の意見や想いが必要なのだと、強く思った。

 

これは、それを知るための、私の足がかりです。