生きる意味はどこにあるのか

2歳の息子が、靴が履けないと地団駄を踏む姿に、なんて素晴らしいんだろうと思った。
母さんがしてあげるから良いでしょうとはならない。履けたから良いでしょうでは、決してないのだった。
自分でできなければ意味がないのだと、この世の終わりみたいにして泣く我が子に、ほとほと困りながらも、生きる態度をそこに見つけた気分があった。
できるようになりたいなら泣いていてはいけません、とにかく何度もやりなさいと、諭したけれど、諭されているのは私の方で。
息子は何度も何度も、まだ自分の思う通りに上手くは動いてくれない手や足を動かして、何度も何度も癇癪を起こしながら、それでも諦めたりしなかった。
その姿は、この生を生きる姿そのものだった。
自分でできるようになりたい!他の誰でもない、この僕ができなければ意味がないんだと、全身で泣く我が子が愛おしかったのを昨日のように覚えている。

 

これだと思う。生きる意味は。


生きる意味ってあるんだろうか?と懐疑的になり、全てが無意味だと思う人に問いたい。
人が体現したことに意味がないと気がついたのなら、なぜ自分が体現することに思い至らないのだろう。
それは、全てが無意味だとしたその「全て」が、人の考えや成したことにあり、自分の考えや成したことがそこにないからではないのか。
自分でできるようになることを、ただ諦めようとしているにすぎないのではないのか。


誇らしそうだったよ。できなかったことができるようになった息子は、いつだって。
そしてできなかったことができるようになることは、その本人にとったら誰にだって誇らしい瞬間なはずで、周りと比べたらできてないことに等しいことでも、できて当たり前とされることだとしても、その誇らしさを無意味とするならばそれは自分を欺くことになる。


自分を欺くとは、真実から遠ざかることだ。
おかしなことではないか。生きる意味とは何だろうと真実を知ろうとして、たぶんあらゆる人の言説を読み解こうとした結果、無意味にたどり着く人たちなのだろうから。けれどそれは、自分のできなかったことができるようになったところも含めて全てが無意味だと結論づけて真実から遠ざかろうとするに等しい。


自分でできることに何の意味がある?
と問う人のその問の前には、括弧付きで、他の人にできることがと付いている。つまりは、人生は全て無意味とする人の「全て」とは、他人の全てという意味にすぎないのだ。
それは、他人を生きようとしているのだから、無意味というところからは出ることが叶わなくなるだろう。


他人にできることに何の意味がある?
と問えば、自分の生きる意味がそこにあることに気がつくだろう。


といっても、自分にしかできないこと
ではない。
自分に「しか」できないことを探そうとすれば、幻想を必要とし、これもまた真実からは遠ざかる。


自分「に」できることでもない。
自分にできることとは、もう既にできるようになったことである。これは確かに実現した自分となり、生きてきた意味ではある。ではあるが、自分に甘んじて先に進もうとしない姿勢になると、そこに成長はない。成長を試みなければ、もう「私」は必要ない。生きていく意味にはならない。


そうではなく、自分「で」できることなのだ。


できない自分との格闘で、苦しくはある。苦しくはあるが、他の誰でもない「私」が必要で、私でできなければ意味がないものになる。私でできるようになるから、意味がある。


生きていく意味は、私で生きていくところに生まれるものだ。