「突然、始まる物語」



突然、始まった物語は
突然、終わりを告げ

遺されたもの達が
また新たな旅を始める

ひとつづきの命の旅を


第一章

【創世記第三章】

 ( なんでも入る空っぽに穴が開いてるのかな? それって、ワクワクする! )
 そう思ったらいても立ってもいられなくなって、
 「穴を探しに行こうよ! 」
と、キュティは嫌がるヤーロを連れ出した。

 ヤーロとキュティは気がついたらここにいて、なんにもない世界でふわふわと浮いていた。ふたりはいつもワクワクすることを探しては遊ぶのが好きだった。
 ある時、光が射してきて、あらゆるところがよくみえるようになった。ふたりのワクワク探しも、より忙しくなった。

 「ね、ワクワクするでしょ? 」
 キュティは振り仰いでヤーロをみた。ヤーロは眉をしかめたまま、少し唇を尖らせてこう言った。
 「ほんとに穴なんか開いてんのか? 」
 「だって雫を追いかけて底の方までいったら、見失っちゃったんだもん」
 キュティはそういうと、鼻を膨らませた。
 ヤーロは首をかしげた。
 「それって、開いてるとは言わないぞ」
 「だけどなくなるってことはないでしょ」
 「ほんとに底なんかあったのか? 」
と、どこまでも信じられない様子のヤーロに、キュティは興奮した様子で一気にまくしたてた。
 「それがほんとにあったの! 触ったわけじゃないけど、突然目の前に色が現れてびっくりしたんだから。一面何かに覆われてたのよ。雫は吸い込まれるようにその中へ消えちゃったの。でも、消えちゃうって変でしょ? だから」
 「穴が開いてると思ったのか? 」
 「そう! いつかヤーロが話してくれたけど、ここは本当に大きな入れ物なのかもしれないね。底があったんだから。そして、その入れ物に穴が開いてるって考えたらもう……! 」
と、キュティは目を輝かせて両手を握りしめた。
 ヤーロはやれやれと首を振った。

 光が射してからというもの、たまに上から何かが落ちてきて、どこかに消えていった。
 はじめて落ちてくるものを見た時は、ふたりとも驚きすぎてただ見入るだけだった。その時ヤーロが言った。
 「ここはなんでも入る空っぽの入れ物みたいだな」
 「空っぽ? 」
 キュティは首をかしげた。
 「なんにもないから、なんでも入るんだ」
 「そんなのおかしいよ。なんにもなかったら、ぼく達もいないことになるでしょ」
 キュティは笑いながら言い返した。するとヤーロはしたり顔でこう言った。
 「この入れ物は大きいからさ、小さいおいら達はいないも同じなんだ」
 それを聞いて、キュティは、
 「気づかれないのはさみしいな」
と少しうつむきながら言った。
 ヤーロは、
 「おいらは、いつもキュティがどこにいるかわかるぞ」
と自分の胸を叩いた。
 それを見てキュティは、
 「うん。ぼくもヤーロがどこにいても気づくよ」
と、柔らかく笑った。

 落ちてくるものは日増しに多くなっていった。 何度も見送ったあと、キュティが不思議そうに言った。
 「どこにいくのかな?」
 「確かめてみるか?」
とヤーロがこたえ、それからふたりの、落ちてきたものを追いかける遊びがはじまった。
 いつも途中で飽きてしまうか、やめてはまた違うものを追いかけはじめたり、そのうちどちらが速いか競争したり、面白いものを見つけたかの言いあいになったりするものだった。
 この日、
 「やーめた」
と言ったヤーロをキュティは物足りなさそうに見て、小さく唇を噛んだと思うとふいとそのまま追いかけて行ってしまった。
 キュティは、ヤーロが言った入れ物の話をいつか確認したいとずっと思っていた。入れ物と言うからには、果てがあるはずだ。それに、この日みつけた雫は、これまでに落ちてきた無数の雫より綺麗にみえたから、どこまでも追いかけていきたい衝動にかられた。
 望むことが違ったことははじめてだった。ヤーロとキュティはこれまではなにをするのも一緒だった。なのに、この日のキュティはヤーロを置き去りにして行ってしまった。
 ヤーロはそれが面白くなくて、猛烈に腹を立てた。キュティを追いかけるのも癪で、虚空をめちゃくちゃに飛び回った。そのうち疲れて眠ってしまった。そうして眠っているところをキュティに起こされた。
 ヤーロはまたひとりになるのが嫌で、キュティにしぶしぶ付き合っているのだった。

 底は本当にあった。
 キュティの言ったように突然一面が色づいた。

 ヤーロは急ブレーキをかけてその場に留まるとあんぐりと口を開けた。キュティはそんなヤーロに得意満面の顔をしてみせた。
 それからふたりは慎重にゆっくりとその色がついたものに近寄っていった。一色だと思った色も、近づくと様々あることに気がついた。
 唐突に何かに触れた。そしてフサフサした感触のあと硬かった。それ以上は押しても先には進めなさそうだった。硬いというはじめての感触にふたりは驚いた。
 キュティははしゃぎまわり、ヤーロは呆然と眺めていた。
 フサフサしたものは一面に広がっていて、なんだかブンブン、ピョンピョン、ヒラヒラと動き回っているものもたくさんあった。
 自分達の他にもこんなにたくさんのものがあるなんて、空っぽだと思っていたからなおさら衝撃だった。
 キュティは、
 「ヤーロが言ったことは本当だったね。入れ物が大きすぎて、小さいぼくたちが気がつけないだけって」
と言った。
 ヤーロは、
 「おどろいた」
と言った後、キュティの手を握ると、
 「でも、おいら達は気がついた」
 「そうね! 」
 そう言うと、ふたりは並んでその辺りをあてもなく漂った。


 しばらくすると、フサフサしたものと同じ色をしたくねくねしたものを見つけた。くねくねしたものは底をずるずると這っていた。なんて奇妙なものだろうとふたりが眺めていると、くねくねしたものがつと上を見た。
 くねくねしたものはふたりを見つけると驚いたようにピタリと止まった。それからもの珍しそうに話しかけてきた。
 「何してる? 」
 まずふたりは、話しかけられたことにびっくりした。ふたりと同じように動くものはたくさんいるようだったけれど、ふたりに気を止めたものはいなかった。
 だから警戒したヤーロは眉を顰めた。けれど、好奇心が先にたったキュティは屈託なく答えた。
 「穴を探してるの」
 「穴? 」
 「うん。君、わかるのね。その、その、わたし達が。驚いたよ! 」
 「穴を探してどうするんだ? 」
 くねくねしたものは、キュティの言葉には答えずに、さらに尋ねた。
 そうしてくねくねしたものを覆っている表面がぬらりと揺らいだ。気持ち悪さを覚えたヤーロはそっとキュティを引っ張り、
 「行くぞ」
と言うと、さっさと行こうとした。つられてキュティもついていき、つられてくねくねしたものもついてきた。なんとなく、不機嫌なヤーロにつられて空気も重たくなった。
 けれど、くねくねしたものはかまわずに、
 「なぁ、穴なんか探してどうする? 」
と話しかけてきた。
 ヤーロは答えなかった。
 けれどキュティは、
 「落ちてきた雫を追いかけてきたの。そしたら、どこにも見あたらないから、ひょっとしたらね、どっかに開いてるんじゃないかと思ったの」
と丁寧に答えた。くねくねしたものは、
 「それで? 」
と、先を促した。促されたキュティは、
 「それで? 」
と、同じ言葉をオウム返しにした。くねくねしたものは体をくねらせて、
 「だから? 」
と、聞きなおした。聞きなおされても、キュティはこれ以上言うことがなかったから、
 「それだけよ?」
と、くねくねしたものを見た。
 くねくねしたものは、苛立たったように尻尾を二回、底に打ちつけると、
 「そうじゃなくて、穴を見つけてどうするんだ?」
と聞いた。
 聞かれたキュティは、
 「どうするって言われても……」
と言ったきり戸惑ったようにそこに留まった。
 そんなキュティをみて、ヤーロもしかたなく先を行くのを諦めた。
 くねくねしたものは、キュティにまとわりつくようにスルスルと足先に触れるところまで這い寄るとさらに聞いた。
 「何が知りたいんだ? 」
くねくねしたものの表面がまた濃くなったようにみえたヤーロは、なぜか落ち着かない気持ちになり、キュティの瞳を覗くようにして言った。
 「ワクワクするからだろ? 」
 キュティは、そう言ったヤーロの目を捉え、
 「うん……そう! 」
と力強く頷くと、くねくねしたものに向かって、
 「ワクワクするでしょ? 」
と、言った。
 くねくねしたものはじっとふたりをみた。そうして今度はヤーロに聞いた。
 「お前もか? 」
 ヤーロはキュティの手を握りながら、くねくねしたものに向かって言った。
 「そうだぞ」
 くねくねしたものは、そんなふたりを交互に見てから、
 「ふぅん」
と鼻を鳴らすと、あさっての方向を尻尾で指し示し、
 「案内してやろうか? 」
と聞いた。
くねくねしたものの表面がまた妖しく光ったようにヤーロは思った。

 キュティはすっかり混乱していた。
 ( どうする? どうするなんて考えたことないもの。何を知りたい? ぼくは……わからない。わからない? わからないってなんだろう。わからないことなんてなかったもの。ヤーロはわかってくれたから。なんだろう。すごくドキドキする )
 キュティは気がついていなかったが、それは未知に対する恐怖だった。
 ヤーロもまた戸惑っていた。
 ( キュティは一体どうしちまったんだ? 何を考え込んでるんだ? こんなこと今までなかったぞ…… )
 ヤーロは、不安に気がついてほしくて、キュティの手をより一層強く握った。
 くねくねしたものは、そんなふたりにおかまいなしに、ゆらゆらとのんびり先を進んでいく。

 たまに振り返ってはふたりを確認して、尻尾をふりふりする。
 ヤーロはその揺れる尻尾を睨みながら思った。
 ( あいつが現れてからだ )
 そしてまたキュティの手をギュッと握った。
 キュティはそれでもただ黙ったままだった。そしておもむろに、
 「わからなくなっちゃったな」
と誰にともなくつぶやいた。
 「何が? 」
 ヤーロとくねくねしたものは同時に聞いた。
 キュティはくねくねしたものに向かって話し出した。
 「ねぇ、くねくねは何を知っているの? 」
 くねくねと呼ばれたそれは居心地悪そうに赤い舌を出して答えた。
 「おそらくなんでも、そしてなんにも」
 それを聞いて、キュティはさらに問いかけた。
 「ぼくは、わかってると思っていたんだけど今はわからなくなっちゃったの。ねぇ、くねくね、お前は何を知ってるの? 」
 くねくねしたものは、とぐろを巻いて、じっとキュティを眺めながら答えた。
 「俺は、俺の知っていることを知っているだけだ。お前は何を知っている? 」
 「ぼくは……、何を知ってるのかな」
とキュティは言葉をつまらせた。
 ヤーロはキュティの戸惑いを感じていたから、助けるつもりで横から声をかけた。
 「キュティはおいらを知ってるだろ? それで充分じゃないか。おいらもキュティを知ってるぞ。おいらはそれで充分だ」
 キュティは、まじまじとヤーロを見た。なんで充分なんて言えるんだろうと、それが驚きだった。ヤーロは何を知っているのだろう、そう思った。だから、
 「本当に、知っているのかな? ヤーロ」
と口にしたきり、黙り込んでしまった。
 ヤーロは思わず手を離した。そして訝しそうにキュティを眺めた。ヤーロはますますキュティがわからなくなった。
 くねくねしたものは、そんなふたりを交互にみると、チロチロ舌を出しながら言葉を選び選び言った。
 「なぁ、穴を見つけても、なんにもしないって約束するか? 」
 キュティは、
 「どういう意味なの? 」
とくねくねしたものをみた。
 くねくねしたものは決まり悪そうに、頭をひょこひょこさせながら、
 「こっちだ」
と言った。

 方向が変わったことに、キュティもヤーロも気がついたけどなんにも言わなかった。
 ただ、くねくねは饒舌になって、
 「あれ、知ってるか? 」
と言っては、道行く先々で出くわすものの名をひとつづつ教えてくれた。
 キュティは、
 「なんにでも名がついてるんだね! 」
と、教えられたものが鮮やかに踊りだす様を、いちいち感心しては眺めた。
 実際にそれは、驚くばかりの変わりようだった。底だと思っていたところは、大地と名がついたとたんに熱をもったように感じた。フサフサと一面に広がったものは、草と名がついただけで生き生きとしてみえた。草にはたまに花と名のついたものがとりどりに色づき、名を知っただけで目にとびこんでくるように映った。色にもそれぞれの名があった。赤、青、黄、緑。草とよばれたフサフサもくねくねも同じ緑色だけど、色の濃さが違ってみえた。ブンブン、ピョンピョン、ヒラヒラとしたもの達は虫とよばれ、虫のひとつひとつにも名があるのではと思うくらい、それぞれの違いが目についた。
 キュティは、見えていた世界が名のつくだけで様変わりするのが面白くて、
 「あれは何?」
 「これは何?」
と、違いを見つけてはくねくねを質問攻めにした。
 ところが、ヤーロにしてみたら、フサフサはフサフサのままで、ブンブン、ピョンピョン、ヒラヒラも同じにしか見えなかった。だから、ひとりはしゃぐキュティに、
 「ね? なんだか違って見えるね! 」
と言われても、キュティへの訝しさは増す一方だった。
 ヤーロには、くねくねしたものが口を開く度に、キュティがどんどんわからなくなっていくように思えた。
 一方、キュティは、ヤーロに気をとめている暇がなかった。空っぽだと思っていた世界がたくさんのものに溢れて、自分も一緒に満ちていくようだった。嬉しさでいっぱいになり、この世界をもっと知りたい欲望にとらわれていた。
 キュティはふと思いついて、
 「ひょっとして、くねくねにも名があるの?」
と聞いてみた。
 くねくねは少し考えながら、
 「あぁ。蛇の一族ではある。でも、くねくねでいい」
と言った。
 くねくねにも蛇と名がついていた。すると不思議なことに、キュティは他にもたくさんの蛇がいるんだと教わらずしてわかった。同時に、くねくねを蛇と思うと、ここにいるのではなくどこか遠くにいる感じがした。だからキュティもくねくねでいいと思った。
 キュティも名がほしくなって、
 「ぼくにも名がある? 」
と聞いたら、それまで黙っていたヤーロが、
 「キュティはキュティだろ」
と、聞こえるか聞こえないかくらいの低い声でつぶやいた。
 「そうじゃなくてね、別の……なんて言ったらいいのかな」
 キュティはもどかしかった。こんなことは今まではなかった。キュティの言いたいことをヤーロはなんでもわかってくれたし、伝わらなかったことがなかった。伝わらないことがわかると、言葉がないことに気がついた。
 助け舟のようにくねくねが補ってくれた。
 「同じ仲間を表す名のことだ」
 キュティは、
 「そう、それよ! 」
と、嬉しそうに、
 「どうしたら名がつくのかしら? 」
とくねくねに訊ねた。思いもよらない質問だったのか、くねくねはゆっくりと答えた。
 「そう、もっと仲間が増えれば……だろうか」
 「増える? 」
 そう首を傾げたキュティを見て、くねくねは、
 「おまえ達はどこからきた? 」
と逆に聞いた。キュティとヤーロは思わず互いを見合わせた。
 そうしてヤーロが答えた。
 「気がついたらここにいたさ」
 「俺達も、気がついたらここにいた。物語はいつも突然始まるもんだ。けれど聞きたいのはそれじゃない。意識が目覚めたところはどこかだ」
 それにはキュティが答えた。
 「私たちはずっと上の方で目覚めたの。気がついたらヤーロがいて、私はすぐにヤーロだってわかったのよ」
と嬉しそうにヤーロを見て微笑んだ。
 それを聞いて、くねくねは考え込むように言った。
 「お前達は何者なんだ? 」
 そう言われて、キュティはビリビリと何かが身体を走ったように思った。
 「何者? 」
 そして、目を輝かせながら、
 「そんなこと考えたこともなかった」
と言った。
 呆然としながらも目に光を宿したキュティが、ヤーロにはくねくねしたものの表面がぬらぬら光るのと同じにみえた。そうしてこれまでの不安がはちきれて、
 「もうたくさんだ! 」
と叫んだ。
 「もう! たくさんだ! こんな得体のしれない奴の話なんか聞くんじゃないぞ! たぶらかして、おいらたちを惑わそうとする、こんな、こんな、くねくね野郎! どこかへ行ってしまえ!! 」
 そう言うと、くねくねしたものに向かって拳を振り上げた。
 その剣幕に驚いたのか、くねくねは一目散にどこかへ姿を消した。
 キュティは、
 「どうして!? 」
と、言葉を失ったようにあとは怒りで震えた。
 ヤーロはくねくねしたものに怒りを向けたけれど、キュティはヤーロに怒りを向けた。
 ヤーロは、そんなキュティにも腹を立てた。
 「キュティもキュティだぞ! あんな奴の話をまともに聞くなんて。気がついてないのか? あいつが現れてから、キュティはなんだかおかしいぞ! 」
 「ヤーロこそおかしいよ。くねくねは親切に色々と教えてくれたのに」
 ヤーロは、おかしいと言われてますます逆上した。
 「おかしい? おかしいだって!? あいつの言うことを真に受けて嬉しそうにしてたキュティの方がおかしいだろ! 」
 そう言われて、キュティはなんだか悲しくなった。
 「どうしてそんなこと言うの? 」
と涙目のキュティをみながら、ヤーロはなんとかわかってもらおうと必死だった。
 「あいつがどんな奴かもわからないんだぞ。ぬめぬめしていて気持ち悪いし、何を考えてるのかちっともわからない奴の言うことなんかを信じるなんて」
 キュティはヤーロがそんな風に感じていたなんて思いもよらなかったから驚いてしまった。
 「気持ち悪い? 」
 「あぁ、そうさ。最初から怪しかったじゃないか」
 「どこが? 」
 「どこって……、あの表面がギラギラ光るところなんか。それに、ざわざわするんだよ。あいつと話すと」
 「ざわざわ? ドキドキじゃなくて? 」
 ヤーロはそう言われてショックを受けた。
 今度はキュティがわかってもらおうと必死になった。
 「ぼくは、ドキドキしたんだよ。そして知りたいと思った。くねくねの知っていることを、知りたいと思ったの」
 ヤーロは、同じだと思っていたキュティがなんだか別になってしまったような気がした。なんでわかってくれないんだという気持ちが溢れでて、
 「騙されてるんだ」
と言った。
 キュティもショックだった。ヤーロも自分と同じように感じているとばかり思っていたから、
 「ヤーロは知りたくないの? 」
と、恐る恐る聞いた。
 「知りたくない。キュティを知っていれば充分だ」
 そう答えると、ヤーロも恐る恐るキュティに聞いた。
 「キュティだってそうだろう? 」
 キュティは、言葉に詰まってしまった。そうして今はっきりと、ヤーロが何も知ろうとしていないことがわかって悲しかった。だから、
 「本当に、知っているのかな。ぼくのことを」
と答えるのが精一杯だった。
 ヤーロは、どうしていいのかわからなくなって、
 「キュティなんか大嫌いだ! 」
と、そのまま虚空へ飛び出して行ってしまった。

 上へ上へとどこまでも進んで行きながら、ヤーロは腹を立てていた。
 最初は、あの得体のしれないくねくね野郎がよくわからないことをキュティに吹き込んで、たぶらかしたことに怒りを覚えた。それから、どんどん何を考えているのかわからなくなっていったキュティに苛立ち、わかろうとしないキュティに悶え、ついには悲しくなった。怒っているのか悲しいのか、悲しいのは自分になのかキュティになのか、わからなくなってしまった。
気がつくと、光のない空間にいた。
 ヤーロは、入れ物を飛び出してしまったと思った。
 すると、入れ物の穴は上にあり、穴が上に開いていたと思うと、自分が落ちているのか上に進んでいるのかもわからなくなった。
 ここは、それこそ何もない空っぽだった。空っぽだと思っていた入れ物が、実は沢山のもので溢れていて、本当の空っぽはここだと思った。 空っぽの空間で、自分も空っぽになってしまったように感じたヤーロは、ただ漂うだけとなった。

 「キュティなんか大嫌いだ!」
 そう言われて置き去りにされたキュティは、力なくその場に蹲っていた。
 自分を守るようにさらに両腕に力を加えて硬く目を瞑ると、
 ( あんなヤーロなんか! ぼくも嫌いだもん )
と思った。
 しばらくすると、何かが周りでうろうろとしている気配を感じて、ヤーロが戻ってきたのかと思った。嬉しくなったけれど、決まりが悪い気もして、
 「くねくねに謝るまで許さないんだから! 」
と、顔をあげた。目があったのは心配そうにのぞき込んだ当のくねくねだった。
 くねくねは、
 「いや、驚いただけだから、謝る必要はない」
と、逃げ腰になったことをごまかすようにその場に丸くなった。
 キュティは、くねくねが心配して様子をみに戻ってくれたことを感じた。
 「ありがとう」
と口許だけ腕に埋めて小さく言うと、手を伸ばしてくねくねの頭を撫でた。
 ちょっと戸惑ったように頭を引っ込めたくねくねは、そのまま撫でられて、そのうち気持ちよさげに目を細めた。他のものに撫でられる経験は、くねくねにとってはじめてだった。
 それは、キュティにとってもはじめての経験だった。ヤーロ以外のものと魂が同化するような感覚は、寂しさを和らげてくれた。
 どれくらいそうしていただろう。くねくねは満足したとでもいわんばかりに全身で伸びをすると、
 「穴はもうすぐそこだ」
と尻尾をパタパタさせてキュティを促した。
キュティはちょっとためらったけれど、
 ( もうヤーロなんか知らないもん )
と思い直し、
 「うん、行こう!」
と言うと、くねくねについて進み出した。

 くねくねは、一本の大きな木の前で止まった。
そうしてその根元を指して、
 「俺の住処だ」
と緑の顔を赤らめて言った。
 「穴を探してると言われた時、俺の住処に何をするつもりだって疑った。だから騙して、どこか適当なところまで連れて行ってしまおうと思った。でも、お前らはただ知りたいだけだって途中で気がついた。きっとお前のかたわれは俺が騙そうとしたことに勘づいて……。あの時はすでに騙す気も失せていたのだが、いや、これは弁明だ。すまなかった。だからという訳ではないが特別に案内してやる」
 くねくねはそう言うと、木の根元にある穴にするすると入っていった。
 キュティは、
 ( これが探していた穴なの? )
と思い、辺りを見回した。
 木は、それはそれは大きなものだった。枝が虚空のあちこちに張り出して、根元から見上げてもてっぺんが見えないくらいだった。そうして、枝のあちこちに、雫とよく似た形のものをぶら下げていた。
 キュティは思わず声を上げてキラキラと赤黒く光ってみえるそれを指した。
 「ヤーロ、あれ! 」
 声にしてから、
 ( あぁ、ヤーロは一緒じゃなかったんだ )
と、胸がちくんと痛んだ。痛いって思うことがはじめてだったから、驚いてしまって、そうしたらとても息苦しいような気がした。浮かんでいられなくなって膝をつくと、
 「どうした!? 」
とくねくねの慌てる声が遠くで聞こえた。

 くねくねはなかなか後を追って来ないキュティをみに戻ったところだった。苦しそうに胸を抑えてひざまずいているキュティをみて、咄嗟に何が起ったのか判断できなかった。何度も大丈夫かと声をかけ続けたが、キュティは意識が朦朧としているようで、しっかりとした反応は返ってこなかった。
 くねくねは考えあぐねた結果、とりあえず自身の住処となる穴へ、キュティの身を休ませることにした。ところが、なんともふわふわとした実体で、掴まえどころがなかったからとても苦労した。
 さっき撫でられた時はしっかりとした感触があったのに、不思議なことだった。そこで、よくはわからないが、消えかかっているのではないかと思った。
 だから穴の中で、トグロを巻きながら卵を温めるように抱きしめた。優しく優しく、キュティに撫でられた時と同じように。

 ヤーロはただ漂っていた。
 どれくらい過ぎたのかもわからなかった。記憶も曖昧になり、暗闇と同化しているようだった。暗闇が自分だと思い、自分とは誰だろうと微かに思った。
 「何者? 」
と自分の思いに重なるように、誰かの声が響いた。
 とても懐かしい声だった。すると一息にその声の記憶が蘇った。
 「そんなこと考えたこともなかった」
 「ね、ワクワクするでしょ? 」
 「 穴を探しに行こうよ! 」
 「なんにでも名がついてるんだね!」
 「ね? なんだか違って見えるね!」
 「私はすぐにヤーロだってわかったのよ」
 「気がついたらヤーロがいて」
 「気づかれないのはさみしいな」
 「ヤーロがどこにいても気づくよ」
 「本当に、知っているのかな? ヤーロ」
 「本当に知っているのかな? ぼくのことを」
 その問いかけに、ヤーロは答えた。
 「キュティ」
 すると内側から光が溢れて、闇を切り裂き、ヤーロは一筋の雫となった。

 真っ白な世界だった。
 靄のようにどこまでも広がっていけるような気がした。
 けれども、広がっていこうとすると、するするとみえない壁にぶつかるように内側へと戻されるようだった。ぶつかる度に優しい体温が伝わってきて、自分もだんだん温かくなるようだった。同じところをぐるりぐるりと回りながら、知らず知らずに穴を探していた。
 そうしてぼんやりと、前にも同じようなことがあったなと思った。
 遠い遠い微かな記憶の中に、この世に最初に意識を持った時のことが蘇った。
 たったひとつの意識があるだけの孤独の中に、一筋の光が入り、その光によって自らを知ることができた喜びの記憶。あれは、いつの記憶だろうか。夢ともつかない朧気な記憶。そして、その光がわたしをよび、わたしはわたしになったのだった。
 そう思いだした時だった。
 光の雫が切り裂くように入ってきて、その雫に触れた瞬間、
 「キュティ」
とよばれた。
 そのまま光の雫を自分の中にとどめておきたい衝動が起こり、キュティは雫を呼んだ。
 「ヤーロ」
 そう声にすると、キュティは急速にその光の雫にめがけて収縮し、一点となった。

 くねくねは、抱いているキュティの体が急激に熱を持ち出したのを感じていた。卵が孵るように、その内側から何かが爆発したような衝撃を受けた。思わずトグロを緩めて様子を伺おうとした時、眩い光が炸裂した。
 目が眩み、辺りが静寂に包まれた。
 一瞬と永遠がそこに同時に存在している美しいカオスを、くねくねはそのトグロの中に抱いていると感じた。
 それから、そっとその場を離れ、よろよろと穴から出て木の実を採るためにズルズルと大木へよじ登った。なぜかそうしなければならない気がした。
 くねくねは、赤黒い雫形の木の実を採ると、穴へ戻り、カオスの上からその実を恭しく捧げるように割って差し出した。
 その赤黒い実の汁がカオスにかかると、先ほどまでぐるぐると渦巻いていたものがはっきりとした形になって現れた。
 それは、最初、キュティとなった。
 キュティは半分に割られた木の実を食べた。そうして、自分の中からさらに一段と光る雫を取り出すと、もう半分の実の汁をその雫に与えた。
 その雫はヤーロへとなった。
 ヤーロもまた、残った半分の木の実を食べた。
そうしてふたりは手を取り合うと抱きしめあった。キュティはヤーロのすべてを確認するように、ヤーロもキュティのすべてを確認するように。
 互いに互いを知らなかったことを思う度に、恥じらいが生まれるようだった。
 キュティは震える小さい声で、
 「あの時、ヤーロがぼくに触れた時、ぼくはぼくだってわかったの」
と口にした。
 ヤーロも、囁くように掠れた声で、
 「おいらはキュティのことだけは忘れなかった。キュティの声が、おいらをおいらにしたんだ」
と言うと涙を流した。その頬に、キュティは自分の頬を寄せた。ヤーロの涙がキュティの涙のようにこぼれていった。
 「キュティが言った意味がようやくわかった。おいらは、本当になんにも知らなかった」
とヤーロが言えば、キュティは、
 「ぼくも、何が一番大切なのかわかった気がするの」
とヤーロの全てを包み込むように肌をすり寄せた。

 それからふたりは揃って穴の外へ出た。外では、いつの間にか穴を出たくねくねが待っていて、嬉しそうに尻尾を振った。
 キュティは、くねくねの額にキスをした。
 ヤーロは少し嫌な顔をしたけれど、それでも、
 「ごめん」
と手を差し出した。
 くねくねはその甲に、キュティにされたようなキスをした。
 ヤーロは少し驚いたけれど、なんだか嫌な気はしなかった。くねくねの魂がほんの少し、ヤーロに流れ入った気がして、ヤーロは改めてまじまじとくねくねを眺めてみた。くねくねを覆った表面がキラキラと輝いて、美しいなと思った。
 くねくねは、
 「親愛の証だ」
といって、その鱗とよばれる表面を一枚外してふたりに渡した。
 「そういえば、あれはなんていう名を持つの?」
とキュティは思い出したように大木にある赤黒い雫を指さしてくねくねに聞いた。
 くねくねは大木を振り仰ぎながら言った。
 「お前の体を持ち上げたら、実体がないように思えたから、この大地に根ざす木の実を与えてみようと思った。この木は、この大地の全ての命と繋がっている。そして、この木の実は、いちのみとよばれている」
 キュティは、また、全身に何かが走るのを感じた。そしてそれは、ヤーロも同じだった。
 ふたりは、今、やっと、この世界と繋がったことを知った。

 それから、なぜだか空は飛べなくなった。
 ふたりは気にもとめなかったが、ただひとつ残念そうにキュティは、
 「穴をぼくも確認したかったな」
と思い出しては話すことがあった。
 そんな時ヤーロは決まって、
 「またいつか違う方法で行けるようになるかもしれないぞ」
と、したり顔で答えるのがお決まりになった。
 不思議なことはたんと増え、性懲りもなくキュティはすぐに冒険に出たがった。
 けれども、ふたりでいられることが何より大切であることを知ったから、喧嘩をしても仲直りをする術を覚えていった。
 ひとりでは自分が誰かさえわからなくなることも、あれから再び忘れることはなかった。
 だから、ふたりは今も一緒に新しいワクワクを探す旅を続けている。処々で仲間を増やしながら。


第二章

 あれから幾億年が過ぎ、大地はすっかり様変わりした。
 あのいちのみの木はすっかり役目を終え、大地の底に眠る。くねくねとよばれた蛇も、ヤーロもキュティもその仲間達でさえ、今はその姿をみることはできない。
 けれども、命を紡ぎながら、受け継がれた魂の旅は続いている。それはこれからも変わらない。