父と、「星の王子さま」

星の王子さま
サン・テグジュペリ
内藤濯
岩波書店

を無性に読みたくなって、この度、読み返してみた。

想い出が、ページを捲るごとに蘇ってきた。

 

ぞうを飲みこんだうわばみの絵を帽子だと思うくらいには大人で、何が書いてあるのかはさっぱりわからないくらいの子供だった頃、父の寝室にある本棚で出逢った本だった。


読んだ後、父に、「星の王子さまが読めたのか」と驚かれ、難しい言葉などひとつもないのに読めるに決まってるじゃんと言いのけた私をみて父は「そうか、そうか」と嬉しそうに笑っていた。

ちっとも読めていなかったのは、バレバレだったと思う。


当時は、うわばみの絵だとわからないのが悔しくて私はすでに子供じゃないんだと思ったり、着てる服とかで品定めをする大人じゃないことに安心したりして、この本は、ほんとうの子供つまり純粋な心を見極めるために書かれている気がしていた。
はだかの王様を見て「はだかだ!」と言える人になるよう、父にも求められているような気がして、とても座り心地が悪くなったっけ。


そのくせ「好きじゃない、わからない」と誰にも素直に言えない、ひとりぽっちの私だった。
「難船したあげく、いかだに乗って、大洋のまん中をただよっている人より、もっともっとひとりぽっち」だったサン・テグジュペリよりも、ひとりぽっちだったに違いない。


ご飯を食べさせるだけじゃなく愛情も行き渡っているかを気にかけてくれる親がいて、どちらがより優れているかを競える兄もいて、そんなんじゃダメだと多くの方法で教えてくれようとする先生もクラスメートもいて、暇な時だけ構ってくれる友達も幾人かいて、誰一人として私をひとりぽっちになどさせるつもりのない人々に囲まれたあげく、繋がり方のわからないひとりぽっちは、広大な宇宙に放り出されるよりもひとりぽっちに違いないと思う。


手を伸ばせばそこに人はいるのにひとりぽっちだったのだから。


「面白かった。すごく好き。うわばみの絵も、私はわかったよ」と嘘を言って誤魔化してわかったふりをする、ほんとうに欲しいものが何かも見えない、作中に出てくるつまらなくて面白くなくてそこらじゅうに蔓延っているように描かれた大人と変わらない、子供だった。


それでも、ずっと心に残っていた。
何が書いてあるのかさっぱりわからなかったのに、何か大切な、それも美しいものが書いてあることは当時の私にもわかったのだ。
特に、バラの話とキツネの話は好きだった。
何が、なんて説明できなくても心に残っていたのは、当時の私を戸惑わせたからだと思う。


読み返してみて驚いた。

だって、今の私が身につけた、人との繋がり方がそっと書いてあるんだもの。

きっと奥底にあり続けたこの本が、私に呼びかけていたのかもしれないと思った。

それは父の呼びかけであったかもしれないと、思った。


それだけじゃない。
この本は、童話だけども子供に向けて書かれたのではなく、かつて子供だった人へ向けて書かれたものだったことで、さっぱりわからなかった事柄や文脈や示唆されていることが様々に読みとれるようになっていた。
そうしてやっと、私は今、「かつて子供だった」ことを思い出せた次第だ。

子供だった人が大人になって、「かつて子供だった」ことを思い出せると読みとれる本だから、大人にもなっていなかった ただの子供の私には読めないところがたくさんあって当然だった。

 

父が「そうか、そうか」と笑っていたのは、自分の深く感銘を受けた本を、娘の私が手に取ったという以外には全く意のないところであったに違いない。

言葉にできない想いはたくさんたくさんあったのだと思う。けれど自分の「想い」は口ではなく行動で示すような人だった。

だからなおのこと、本を通して、伝わる何かに嬉しかったのかもしれない。

正しく、純粋でいて欲しいと強く願っていたのはわかっていた。父の想いを、わかっているつもりだった。

読み直すまでは。

この本が私にとって特別になるのは、父の寝室の書棚に秘められた本だったからだ。
父がこの本を読んで何を思ったのかはついに話せず終いだったけれども、父にとって、私の笑顔を見ることは、文中にある「砂漠の中で泉の水を見つけるのと同じだった」のだと、この度やっと、本を通して父から打ち明けられたような気がする。

そういえば、父は私が不機嫌な顔をしているといつも言っていたっけ。

「笑顔がいちばん可愛いのに」って。

私が、怖がっているときも、悲しみでいっぱいのときも、苦しさで歩みを止めてしまいそうなときも、大丈夫だよとふざけてみたり、抱っこしておんぶしてあやしてくれて、拳骨ひとつと少ない言葉で叱って励ましてくれた。

それでも私が笑顔をみせないと、傍で困ったようにして、よくそう言っていた。


おかげで座り心地が悪くなることはなくなったけれど、かわりにすっかり寂しくなった。
寂しくなると、王子さまは入り日を見たくなると言っていた。夜になったら星を眺めておくれよと、お願いされたっけ。

キツネは、何かが特別になるのはそれでひまつぶししたからだと教えてくれた。


真昼間の明るい空に、入り日を待ちながら満天の星を眺める。


「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているから」

という王子さまの声がして、ラピュタの「君をのせて」が頭に流れた。
「あの地平線 輝くのは あのどれかひとつに 君がいるから」


世界がいつでもどこでもたいていはとても美しく見えるのは、きっと、井戸もバラもひつじも王子さまも、飛行機で探索に出たまま戻らなかったサン・テグジュペリもこの物語を贈られたレオン・ウェルトも、どこかに隠されているからかもしれない。

私の父も。

たくさんのものを美しく見られるように、私の人生に隠していったのだ。


だから私も、私にとって、父の笑い顔はたくさんあるどれかひとつの特別な星であり、5億の鈴の音であり、金色の麦なのだと、遅ればせながら伝えたいと思った。

 

だからこれは、父への手紙です。

 

代わりに読んで下さったみなさま、ありがとうございました。

そういえば、サン・テグジュペリは、この本の最後で、星の王子さまが戻ってきたのがわかったら、手紙を書いてくださいとお願いしていました。

サン・テグジュペリにとっては、星の王子さまはレオン・ウェルトだったんだろうという気がします。

そうして私にとっての星の王子さまは、父だったんだろうと思うのです。