永瀬清子「流れるように書けよ」を読んで

詩をかく日本の女の人は皆よい。

報われること少なくて

 


で書き出されるこの詩の一遍は

 


はげしすぎる野心ももたず

 


先生もなく弟子もなく

殆ど世に読んでくれる人さへなくて満足し

 


しかし全く竹林にゐるやうなものだ

 


とくる。

呼びかけられて、心が洗われるようだった。

けれど、なぜ女詩人だったのか。

報われることなく、弟子もなく、たいした野心もないままに、流れるように書いてきた人は男の中にもいるだろうに。

日本の、と区切るのだ。

すべての女の人ではない。

 


日本の女が居たんだとわかる。

日本の女という生き方や暮らし方があったのだ。

男が居て、野心を求める生き方があったのだ。

今はどうかとすると、

そんな女は居なくなった。

日本の女を捨てて、皆、男になった。

女の生き方は否定され、

より良き生き方一つを求めている。

ジェンダーフリーが叫ばれながら、暮らし方は勝ち負けになった。

けれど、多様性と言いながら、羨むのは人の土地。自身の土地は捨てて忘れる。

暮らし方を知らない、男ばかりになった。

 


腐葉土のない土地で、自身が腐葉土になるのは嫌だと

耕さず、打ち捨てられて

 


女の生き方、暮らし方のあった方が

まだ自由だったと思うのは勝手だろうか

 


女の生き方を嫌うばかりに

一つの生き方を否定すれば

そこで暮らした良きもの

稲の実り、畦の草花、辻に立つ桜の樹さえ

共に植えた苗の喜び、叱られた子供の泣き声、皆で見上げたあの空の蒼さえ

成り立たなかったものを

 


捨てるなら、女の生き方ではなく

暮らすなら、勝ち負けではなく

腐葉土のあるなしに関わらず

自身も腐葉土にいつかなる日まで

 


普段着のごとく書けよ

   流れるごとく書けよ

 

まるでみどりの房のなす樹々が

秋にたくさんの葉をふらすやうに

とどめなくふってその根を埋めるやうに

たくさんの可能がその下に眠るやうに。

 


何年も何年も

 


生きてる限りは

書いていきたい。

わたしが私に成るように

私がわたしに成るように