寄り添うって簡単に言うけどさ
寄り添うと聞くと、どんな事を具体的に思い浮かべるだろう?
昔の私は、「気持ちを分かること」や「同じ気持ちになること」だと思ってた。
けど今は、「共に過ごせる場を創る」の方がしっくりくる。
あの誰かに分かって欲しくて堪らなかった時の寂しさは、結局、気持ちを分かろうとしてくれたり、同じ気持ちになってくれる人では癒されなかった。
私の場合だけど。
その時は嬉しいんだけど、そのうち重くなったり、傷つけあったり、結局は分かってないって気持ちが加速していくようで、寂しさは募るばかりだったなって思う。
いつも同じ気持ちにはなれなかったし、それは相手も同じことだったから。そして分かろうとしてもすべてを分かるわけでもなかったから。
私の気持ちに寄り添えるのは、私しかいなかった。
これ、寂しいように聞こえるけれど、私が私に寄り添えるようになったら、ほんと、嘘のようにそういう寂しさは溶けてしまった。
なくなったわけじゃないんだけど、今は愛しさに包まれている感じなんだ。
で、なぜ自分の気持ちに寄り添えるようになったのかっていったら、誰かと共に過ごせる場所があってそこに人がちゃんといたからなんだ。
強要するのでもされるのでもなく、誰かに居てほしい時はその場所があって、独りになりたい時はそっとしておいてくれる人達がいた。←私が拒絶していたんだなって、あの頃の数々を思い浮かべてそう思う。
不機嫌や悲しさや寂しさに囚われている人間に、あえて関わろうとはしないんだ。そういう居心地の良い人達は。
なぜならたぶん、彼らは、わからない気持ちに寄り添おうとしても傷つけるだけなことを知っているからなのかもしれない。
そっとしておいて欲しいときがあることを知っているからなのかもしれない。
一見、冷たいようにみえるけど。
無理に分かってもらおうとしない人を好み、無理に分かろうともしないから居心地が良かったりするんだろうなーって。
でも、それぞれに、分かるところは分かり合い、できるところで傍にいようとしてくれる。共に過ごそうとしてくれる。
大丈夫?ってそっと見守っていてくれたりしてるの。
優しいなって、私は思う。
ありがとうって、素直にそういう人達の好意を受け入れていくうちに、気持ちって分かって貰わなくても共に心地よく過ごすことはできるんだって、ちょっとづつだけど変わっていけたのは、そういう優しさがあることに気がつけたからだ。
それでもあの時はまだ、誰かに寂しさを分かって欲しいって思っていたから、分かってもらいたいなら分かってあげなくちゃって、人に無理して迎合するところが多かった。
無理してるのがバレないように無理してるみたいなとこもあって、強がっていたけどもういっぱいいっぱいで、そんな時、居たかったら居てもいいよって場所に、出逢えた。
そしてそこに集まる人達がいた。
話を聞いて貰ったわけじゃない。気持ちを分かって貰えたわけでもない。
だけど、気持ちを吐露なんてしなくても、居る場所があるだけでこんなに満足しちゃうもんなんだなって。
取り留めのないことをダラダラ話したり笑ったりする人達の声を聞きながら、そこで過ごすだけで癒されている自分に気がついていった。
以前の私は、関わった人達から欲しい言葉が返ってこないと、やっぱり話しても分かっては貰えないんだって卑屈になってた。それで、結局この人じゃなかったって、一方的に関係を絶ったり、勝手に腹を立てたり、自暴自棄に自分の人生を嘆いたりしてたこともあったんだけど。
そこは、関係したくなければ行かなくて良い所だった。行きたくなったときだけ顔を出しても、
「おお」
って、しばらくぶりなのに
「なんで来なかったの?」
とか聞かれることもなく、やっぱり居たかったら居てもいいよって感じで。
その場所はいつもそうやって私を迎えてくれた。
咎められることは何もなく、咎める人も誰もなく、だけど寂しくなるどころか、私という人間にとても無頓着だったことが、とても居心地が良かったんだ。
分かって欲しいなら、私から誰かをほんとうに分かってみよう。私がまず、人の欲しい言葉をあげられるようにならなきゃみたいにその頃はまだまだ思ってたとこがあったけど。
だけど。
私が必要とさえすれば。
必要とされる場所じゃなくて、自分からここにいたいなーって思える居場所があるってことが新鮮で嬉しいっていうのかな。
必要とされなくてもいいんだーっていう安堵感が心にぱあっと広がっていって、自分でビックリしたみたいなとこがあって。
だって、必要とされるから居てもいい場所ができるんだって、思い込んでいたから。
必要とされる自分を演じなくていい場所があるっていうのがね、心を解きほぐしてくれたんだと思う。
そこに集う人々は、ほんと、自由気ままでさ。
嫌いなら嫌い。好きなら好き。居たいなら居る。帰りたくなったら帰る。
遊びたかったら遊ぶし、寝たかったら寝るし、お腹すいたらご飯を食べる。
「お腹空いたな」
って誰かが言うと、
「俺もー」
って何人かが賛同して、腹が減った奴らだけラーメン食べに行ったりするの。
行きたくなかったら、行かなくてもよくて。
もう、そういうのがね。
堪らなく不思議で、堪らなく好きだった。
わかんない話とか平気でわかんないとかいうし、誰かが誰かに気を遣ってとかもなくて。
「俺あいつ嫌い」
って誰かが言っても、
「そうなの?」
「えー、あいつカッコいいじゃん」
「いや、あいつはカッコよくない!」
「なんだ、ゴリラのお前がオラウータンにライバル意識か」
「ばか、あいつのカッコよさは美しい森の人だ」
「だから、あいつはカッコよくない!」
「大丈夫。ゴリラのお前もカッコいいって」
って、茶化して笑って終わっちゃうの。
「オラとかタンとかウーさん、今度こっちに出てくるって」
って嬉しそうに話してる中で、
「えー、じゃ俺その日パス」
ってゴリラさんはほんとに顔出さなくてさ。
大丈夫なのかなって、私だけがハラハラしてて。
だけど、オラウータンが森に帰るとゴリラさんはいつものように顔出して、
「楽しかったからくれば良かったのに」
って言われても、
「俺はあいつ嫌いだって言ったろ」
って。他の皆は、
「ライバルだからな」
って笑ってるの。
「ライバルじゃねーしっ」
て怒ってるゴリラさんもなんか楽しそうにさ。
嫌いなのはしょうがないけど、それはそいつの問題であって、俺らは遊びたかったら遊ぶさってスタンスで、それをゴリラさんも認めてるっていうか、なんとも思ってないのが、当時の私には本当に衝撃的なくらい新鮮で楽しくて、そういうのいいなって思えたんだ。
気がついたら、分かって欲しいあまりに分かってあげなきゃって思ってた自分から、分からないものは無理に分かってあげなくてもいいんだなって思えるようになっていた。
そこにいる人達のまんまの相手がすっと入ってきて、ああ私もまんまでいいんだって解放されるような感覚を初めて味わった。
ふーん、そうなんだーって。そっかーって。
そしたら、自分の寂しさにも、憤りにも、憎しみにも、卑屈さにも、自分という人間に対しての諸々が、
ふーん、そっかー、そうなんだー
って。良くも悪くもなく、悲しかったねー、辛かったねー、よく頑張って、偉かったなー私って。
その、欲しかった言葉を自分にかけてあげられるようになってた。
それは、同じ気持ちになろうとしたり、わかってあげたりしようとして、無理に自分の気持ちを曲げなくても居心地は良いままでいられるんだと、あの場で遊びながら関わる人達が教えてくれたから。
むしろ気持ちを曲げてしまうことで、居心地の良さは失われていくんだと思うようにまでなれた。
そして、欲しかった言葉を的確に渡せるのは、他でもない私だったんだなーって。
渡せるようになったから気がついた。
だから、寄り添うって、無理に気持ちを分かろうとすることよりも、誰かが一緒に過ごしてくれる場所のある方が私は助かったし、癒されたし、学べることが多かった。
そんな経験から、私にとっての「寄り添う」は、共に過ごせる場を創ることになった。
居たかったら居られる場所。
必要とされる場所じゃなくて、必要とされなくても居たかったら居てもいい場所。
独りになりたかったらそれは構わない。
その時の気持ちで気兼ねなく居られるような場所があってこそ、そこに集まる人達と、一緒にご飯を食べたり、遊んだり、くだらないことでゲラゲラ笑えるようになっていく。
そしてやっとそこに、誰かの寄り添って欲しい何かへ「寄り添う」ことができるようになるんじゃないだろうか。
「寄り添う」って簡単に言うけどさ。