エロってなんだろう?

‪この間、とあるツイートを読んでふと疑問に思ったので、自分なりに解釈するために調べてみた。‬
‪まるで中学生みたいだと思いながらw‬

エロを調べると、わいせつという言葉が出てきた。わいせつってなんだろうってウィキを開くと、「社会通年に照らして性的に逸脱した行為」とある。‬
‪ますます分からなくなった。‬

そこで、エロの語源となったエロティシズムをウィキで読んでみた。‬
‪リビドー、ギリシャ神話の女神エロース、キリスト教でいうところの愛であるエロス・フィーリア・アガペープラトンイデア論などなどの名前がずらずら出てきた。

 

‬‪面白いなと思ったのは、バタイユの考え方だった。‬
‪「自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと……身を溶け込ませようとすることが、すなわち快楽である」‬
‪「性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える」‬
‪そして、シモーヌ・ド・ボーヴォワールによる「個体性は要求されない。雌は、種の保存のために自己放棄が必要だとすれば、自己を放棄するのである」とあり、従ってポルノグラフィとエロティシズムを明確に分けるのは正しいとあった。

「猥褻はリアリズムの特徴を帯びている。そこでは肉体や性行為は、モノとして示される」とも。‬

なんとなく、腑に落ちた。‬
‪わいせつは、性をモノとして扱うから気分を害し、エロティシズムではなくエロは、モノとして扱われることで感情を扇情させるよう特化されているんだなと。‬

性行為は個の放棄に繋がる。‬
‪この考えは、私にはなかったものだけど、言われてみたらそうかもしれないと思えた。忘我の境地でいられる時は、性行為でなくとも気持ちがいい。‬
‪けれど個を放棄することは、恐ろしさや怖さでもある。‬性行為でなくともモノ扱いされるのは不快だ。
‪なのに、放棄しながら他者との共同へと身を溶け込ませることができたなら、さらに大きな快楽になるだろうなとも思えた。‬
‪つまりは、どこかで人は個を放棄したいと願っているのかなぁとも。‬

 

そこでつらつらと考えてみた。

個を放棄することは、本当に快楽になるだろうかと。

 

私は、‪自分の背中は見たことがないのに、背中がどういうものかは知っている。‬
‪なぜならそれは、人の背中をみて、私の背中と思っているからだ。‬

アダムとイブは禁断の実を食べたことで、互いが裸であることに気がついたとあるけれど、それは、人の背中は私の背中ではないと気がつくことに似ているのかもしれない。‬‪

 

つまり、他者をはっきりと意識することにある。自分とは違うことに。そこに羞恥心が生まれたと考えると説得力が増す。‬
‪例えば、人の目がない風呂場で裸になっても恥ずかしくないように、誰もいなければ恥ずかしさは生まれない。‬
‪とはいえ、誰もいないのにとある行為をすると恥ずかしさを感じることはある。それは、他者という自分の目が自分の中に既にあるからだ。たぶん、良心とか、客観性とよばれている類のもの。子供の頃を思い出してみるとわかる。自分の心に他者がいない頃は、罪の意識も恥ずかしいと思うこともなかった。‬

私の感じていることは私しか感じていない。

 

一体感からの断絶である。同じだと思っていたところに、同じではなかったという衝撃は絶望や不安や猜疑心を生む。なぜなら私が感じていることを相手も同じようには感じていないのだから。

疑いはこうして生まれる。‬

違いながらも同じであることを希求するのは、他者の存在がなかった頃の一体感がもたらしていた喜びや安心感にあるとしたら、バタイユのいう「共同へ身を溶け込ませることは快楽である」というのも頷ける。‬

 

ひょっとすると、モノではなく、個としての同じを求め求められた時、個は必要なくなるのかもしれない。

 

そんなことを思った。