愛があるのは子の方だ

‪親の愛情不足という文言をまた目にした。‬


‪いつも思う。‬
‪そもそも親の持つ愛情は愛情なのか、と。‬


‪愛を持っているのは子の方だ。‬

 

‪私はその世間の認識を払拭したい。‬

 

 

‪子供はどんな親だろうが、自分の命を全て委ねる。‬
‪受け入れる。‬
‪あの、子がよせる親への全幅の信頼と全肯定を私は他に知らない。‬


‪親は違う。‬
‪子供を全肯定はしない。できない。‬
‪他と比べて、歩くのが遅い、喋るのが遅い、字を覚えるのが遅いとできないことに不安する。‬
‪できたとしても、そのできたことに喜び、価値をおき、もっともっとと欲する。‬
‪こんな子に育って欲しいと願い、要求する。‬


‪果たしてそれを愛情とよぶのか?‬

 

‪一方、子供は、親を全肯定する。‬
‪疑うことをしない。‬
‪親のすること、やること、望むことを、真似して成長していく。‬
‪親の要求することに懸命に応えようとする。‬
‪虐待を受けた多くの子供が、なぜ揃えたように「私が悪い子だから」と口にするのか。‬
‪それは、親を全肯定している表れのひとつだ。‬

‪と、私は思う。‬


‪愛情があるのは親ではない。‬
‪愛を与えるのも親ではない。‬
‪子供から愛を貰っているのだ。‬
‪愛を貰うから、そしてその子供の愛に気づかされるから、親は子に愛情を抱くのではないか。

‪そうした子供の愛に気づけない、子供の愛を受け入れられない人が、「子供を愛せない」と嘆くのではないか。全肯定されるのは、実は怖いことだから。‬
‪だから親は、子育てをしながら自分の心を見つめ直すことになる。‬
‪自分で自分を肯定していくことができて、やっと、他から貰う肯定を受け入れられるようになるものだから。‬

 

‪親は、そうした子供の持つ愛(信頼、全肯定)に、どれだけ応えてあげられるのか、ではないか。‬

 

‪人ひとりの信頼に応え続けていくことは怖い。しんどい。辛い。‬
‪全肯定されることが、こんなに怖いことだなんてと、私は慄いたものだ。そうして愛おしくなった。‬
‪目の前の委ねられた命は、私がどんな人間かも知らずに、全てを預けている。私が「良いこと」と言ったらそれを「そうだ」と信じる。きっと、カラスは白いと教えたらこの子は「白」だと思うのだ。楽しいと笑えば、楽しいと感じるようになるのだ。‬
‪正しいことが何かも分からない人間が、この子に正しいことなど教えられるのか?‬


‪そうした怖さがいつもあった。‬

 

‪だから、子供は一人では育ててはいけないのだと思う。‬
‪私が正しい、良いこと、楽しいと感じることばかりではなく、より多くの人の、正しい、良いこと、楽しいに触れられるように。‬

‪そうして、その中から、自分の正しい、良いこと、楽しいが創られていくように。‬

間違っても、親の思う正しい、良いこと、楽しいを押しつけたりして、それが絶対だと思わなくてもすむように。

 

それでも「愛情不足」という言葉を使いたい人がいるなら、それは、子供の愛に応えられない大人社会の愛情不足だ。互いが信頼し、肯定しあえる社会がないことにある。

子供の愛に応えてあげられる社会の実現は、誰もがかつて子供であったことを思えば、誰にとっても自分の愛に応えてくれる社会であるといえるのではないだろうか。

 

愛を、「望み」とはき違えることがなければ。

嫌われる勇気じゃない

‪嫌われるのが怖いのではなくて、本当は「好きになる」ことが怖い。‬


‪好きになったら幻滅するし、

好きになるから嫌いになるし、

好きだから嫌われたくなくなる。

期待に応えたくなる。‬
‪そして、もうこれ以上、期待に応えられない自分をみたくない。

人を嫌う自分を嫌いになりたくない。‬

(全てを許容してほしいという深層にあった心が、無意識に全てを許容しなければと思っていた。だから、相手の期待に応えられない自分がダメなのに、不甲斐ないのを棚にあげて嫌いになるとか、超絶身勝手すぎる!ありえない!って首を絞めてた。)


‪そうして昔は拗らせていたから、好きになる前に関係を切っていた。‬
‪立ち入らせなかった。‬

好きにならなければ嫌いになることもなかったから。

同じように、好かれている間に別れたいと、よく思ったものだ。

どこかで気がついていたんだよね。

好きになったら「嫌い」も必ず出てくることに。


ただ‪皮肉なことに、人とのあらゆる関係は、自分が「好きになる」ことから始まる。‬
‪そして「好きになる」ことがなければ持続しないのだ。

なぜって、「好きになる」ことでそこに他者が存在するようになるからだ。‬

心に他者が存在しないとは、孤独ではなくて孤立だ。心の孤立なのだ。


そんな中‪、それでも私が「好きになった」人達から学んだことは、嫌いになっても構わないということ。‬
‪幻滅してもいいし、悪態をついてもいいし、期待に応えなくてもいい。‬
‪全部を好きじゃなくていいんだってこと。

 

私はこれで、とても楽になった。‬
‪好きになることが怖くなくなったのは、一度好きになったら死ぬまで好きでい続けなければ裏切りになると、どこかで思っていたからだ。‬

ちょっとでも嫌いなところとかあったらダメだと思い込んでいた。それもあって、好きな人のダメなところとか見えても、見て見ぬ振りをして懸命に許容しようとしていた。

ダメじゃない。ダメと思ってしまう私の心が狭いんだって。

私の幸いなところは、弱みにつけ込んで踏みにじるだけ踏みにじっていこうとする人達が周りにいなかったことだ。

(見守って下さったご先祖さまに感謝しております)

好きな人の中に嫌いなところはあるし、嫌いな人の中にも好きなところはあるものだ。

そうして相手も、その事は重々承知の上なのだ。重々承知の上になければ、その関係はいつか破綻するように思う。

だから、ごめんねとありがとうが日常に必要で、必須の心となる。

なかったらやっぱやってらんないってなるのが人ってもんだと思うんだ。‬
‪嫌いが持続しない、持続させないって、とっても大事。

つまり言い換えたら、「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えたらどこでも生きていける!ってこと。

これは私の持論だから、

「そこそこね」

と弱気をつけ足しておく。

私もまだ人生の途中だから、さ。

 

それに気がついてからは、自分の中にも好きなところと嫌いなところがあって当然なのだと思えるようになった。嫌いなところをダメだと思わなくなった。‬

あ〜、そんな日も、そんな時もあるよねぇ。ドンマイ!次からもうちょっと気をつけるー

(直るとは言わないし、直すとも言わない)‬

そんなんだから、相手にも求めなくなった。‬
‪「そういうとこ、嫌いー」で済むようになった。

(たいてい本人に言う。ちなみに「そういうとこ、好きー」も思ったら言う)

 

そうして、言えるようになってから気がついた。

「そういうところが嫌い」って本人に言えるのは、それでも好きだと感じる心があってのことなのだと。

「そういうところが嫌い」って言われても受け入れられるのは、それでも私の「好き」がそこにあるからなのだと。

それでも好き、

だから好き、

含めて好き、なのだ。

本当に嫌になって関係を絶ってしまいたい時は、本心を見せたくなくなる。それは、「嫌い」という言葉だけでなく、どんな言葉もなくなるということだ。

言葉は心そのものだから。心のない言葉は空っぽで、空っぽだから上滑りしてどこにも届かない。

 

だからといって、好きだと思っていた「時」の事実は変わらない。

 

インサイドヘッド(ディズニー映画)を観た人はわかると思うけれど、最初は一つの思い出には一つの感情だった想い出の玉が、最後はあらゆる感情が織り交ざった玉になっていた。

(観てない人は、なんのこっちゃって話だから、機会があったら観て下さい。o┐ペコリ)

本来、人の感情とはそういうもので、一つの事柄に一つの感情なんてありえない。

 

好きと嫌いは喜怒哀楽だけでなくあらゆる感情の元となるものだから、もっと混在していて不思議はない。

むしろその方が自然だ。

 

一度「好き」と思ったら、ずっと好き、全部好きではなくて、

「好き」と思ったその時があったのなら、

その事実があったことは変えようがない、

ということなのだ。

もし、「あの時の私はどうかしていた」と、あった感情をなきものにしようと誤魔化したとしても、他人は欺けても自分で自分を欺くのは骨が折れるし、そのうち本当の自分の気持ちが分からなくなるからやめておいたほうが良いよと、そっと置いておきます。

 

そして、ずっと好き、全部好きって今思っている人がいたら、

幸あれ!♪

その気持ちに嘘がないなら、嫌いになところを見つけても、ダメなところがあっても、互いに上手くやっていけるさ(´∀`*)

きっとね、きっと。

 

いいところひとつ
それで人間生きていける

だめなところたくさん
それで人間愛される

エロってなんだろう?

‪この間、とあるツイートを読んでふと疑問に思ったので、自分なりに解釈するために調べてみた。‬
‪まるで中学生みたいだと思いながらw‬

エロを調べると、わいせつという言葉が出てきた。わいせつってなんだろうってウィキを開くと、「社会通年に照らして性的に逸脱した行為」とある。‬
‪ますます分からなくなった。‬

そこで、エロの語源となったエロティシズムをウィキで読んでみた。‬
‪リビドー、ギリシャ神話の女神エロース、キリスト教でいうところの愛であるエロス・フィーリア・アガペープラトンイデア論などなどの名前がずらずら出てきた。

 

‬‪面白いなと思ったのは、バタイユの考え方だった。‬
‪「自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと……身を溶け込ませようとすることが、すなわち快楽である」‬
‪「性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える」‬
‪そして、シモーヌ・ド・ボーヴォワールによる「個体性は要求されない。雌は、種の保存のために自己放棄が必要だとすれば、自己を放棄するのである」とあり、従ってポルノグラフィとエロティシズムを明確に分けるのは正しいとあった。

「猥褻はリアリズムの特徴を帯びている。そこでは肉体や性行為は、モノとして示される」とも。‬

なんとなく、腑に落ちた。‬
‪わいせつは、性をモノとして扱うから気分を害し、エロティシズムではなくエロは、モノとして扱われることで感情を扇情させるよう特化されているんだなと。‬

性行為は個の放棄に繋がる。‬
‪この考えは、私にはなかったものだけど、言われてみたらそうかもしれないと思えた。忘我の境地でいられる時は、性行為でなくとも気持ちがいい。‬
‪けれど個を放棄することは、恐ろしさや怖さでもある。‬性行為でなくともモノ扱いされるのは不快だ。
‪なのに、放棄しながら他者との共同へと身を溶け込ませることができたなら、さらに大きな快楽になるだろうなとも思えた。‬
‪つまりは、どこかで人は個を放棄したいと願っているのかなぁとも。‬

 

そこでつらつらと考えてみた。

個を放棄することは、本当に快楽になるだろうかと。

 

私は、‪自分の背中は見たことがないのに、背中がどういうものかは知っている。‬
‪なぜならそれは、人の背中をみて、私の背中と思っているからだ。‬

アダムとイブは禁断の実を食べたことで、互いが裸であることに気がついたとあるけれど、それは、人の背中は私の背中ではないと気がつくことに似ているのかもしれない。‬‪

 

つまり、他者をはっきりと意識することにある。自分とは違うことに。そこに羞恥心が生まれたと考えると説得力が増す。‬
‪例えば、人の目がない風呂場で裸になっても恥ずかしくないように、誰もいなければ恥ずかしさは生まれない。‬
‪とはいえ、誰もいないのにとある行為をすると恥ずかしさを感じることはある。それは、他者という自分の目が自分の中に既にあるからだ。たぶん、良心とか、客観性とよばれている類のもの。子供の頃を思い出してみるとわかる。自分の心に他者がいない頃は、罪の意識も恥ずかしいと思うこともなかった。‬

私の感じていることは私しか感じていない。

 

一体感からの断絶である。同じだと思っていたところに、同じではなかったという衝撃は絶望や不安や猜疑心を生む。なぜなら私が感じていることを相手も同じようには感じていないのだから。

疑いはこうして生まれる。‬

違いながらも同じであることを希求するのは、他者の存在がなかった頃の一体感がもたらしていた喜びや安心感にあるとしたら、バタイユのいう「共同へ身を溶け込ませることは快楽である」というのも頷ける。‬

 

ひょっとすると、モノではなく、個としての同じを求め求められた時、個は必要なくなるのかもしれない。

 

そんなことを思った。

 

 

電車に乗るようなものだという
あたかもレールがあるかのように

 

思い返せば、
私は電車に乗れたのだろうかと思う
みんなが乗った電車に

 

親が乗っていた乗り物から
降りたくなったのはいつからだろう

 

これに乗りなさいと
切符を渡されていたのに

 

私は結局
みんなが乗った電車の後から
途方に暮れて
歩き出したようなものだ

 

途方に暮れていたはずなのに
見てきた景色がかけがえのない彩りとなり
気づけばレールは消えていた

 

頭の上には広がる空と
足元には小さな花と
見渡す限りの草原が
水平線の彼方まで風渡る

 

気づけばここに
この世界に
放り出されたように感じても

 

最初はみんな
行く方向に
つられるように進んだとしても

 

楽そうにみえる
乗り物に
たとえ乗れなかったとしても

 

降り立ったところで
人はいつか
歩かなければならなくなる

 

見えていたレールが消えて
どこへ向かっていいのかわからなくなったとしても

 

自らの足が
全方位へ
わたしをはこんでくれるだろう

 

行きたい方へ
みたいところへ

「ほんとうの願い」

 

 むかしむかし、


 なんでも叶えてくれる「魔のもの」がおりました。
 魔のものは、人を満たすために日々、懸命に働いておりました。
 人を満たすのが自分の役割だと思っていましたから。

 

 

 お金持ちになりたいと願う男を、お金持ちにしてやりました。
 「欲しかったのはお金じゃなかった」
と言われました。

 

 美しくなりたいと願う女を、美しくしてやりました。
 「美しくなりたかったわけじゃないんだわ」
と、女はさめざめと泣きました。

 

 偉くなりたいと願う卑屈な者を、偉くしてやりました。
 偉くなれば偉くなるほどその者の卑屈さは増していき、
 「意味がなかった」
と叫ぶと、ついに気が狂ってしまいました。

 

 強くなりたいと願う孤独な者を、強くしてやりました。
 強くなれば強くなるほどその者は恐れられていき、ますます孤独を深くしました。
 「こんなはずじゃなかった」
とこぼすと、ひざまずいたまま動かなくなりました。

 

 夢見がちな少女がいました。
 毎日、雲に竜を描いては空を飛びまわり、花を見ては妖精が生まれ、蝶や鳥とワルツを踊るのを、うっとりと想像するのです。
 魔のものはそれを知ると、その少女の夢を全て叶えてやりました。
 「何も想像できなくなったわ!」
と、絶望したように少女は怒りました。

 そこで、想像したことが全て現実になることを逆手に取って、少女はこう言いました。

 「想像することが楽しい世界に戻して、夢魔!」

 

 

 魔のものは舌打ちをすると、すっかり元通りに戻してこう言いました。
「ちぇっ、みんなもう満たされていたんじゃないか」
 パチンと音がして、魔のものは消えました。
 そうして二度と戻ってきませんでした。

 

 

 すっかり元に戻った世界で、今も、
 男は金持ちになりたいと願い続け、
 女は美しくなりたいと願い続け、
 卑屈な者は偉くなりたいと願い続け、
 孤独な者は強くなりたいと願い続けています。
 

 「だったらいいのに」
と、心踊らせることで満たされていることにも気がつくことなく。

 

 もちろん、夢見がちな少女も、想像し続けています。

 空想こそが楽しいことを、彼女は知っているからです。

‪許す許さないの話

なぜ私が「許さない」ことはあった方がいいと思うのか。それは誓いだからだ。
許してしまえば、その行為を自分にも許すことになる。私がされて嫌だと思ったことを、誰かにした時、嫌だと思った私を否定するように感じる。

 

さて、この感じるを、もう少し掘り下げてみよう。
本当に否定することになるのか?

 

私がされて嫌だと思ったことを簡単に説明すると、仲間外れが嫌だった。

けれど、仲間外れになるにはなるだけの理由があった。

転校生であったこと。
相手の感情を理解しようとしなかったこと。
正論で相手を傷つけていたことに気がついていなかったこと。
人は感情に任せて愚かな行為をしてしまうことがあることを自分も含めて知らなかったこと。

 

一つづつ、許されないことは何だったのかを考えてみる。

 

転校生であったことは不可抗力だ。
知らないもの同士が付き合おうとすれば歩み寄りがあるが、知る必要のない(もう既にコミュニティが出来上がっていて、無理をする必要がない)相手にしてみたら知ろうとする行為自体が大きな大きな心の隔たりであることはどうだろう。そもそも、人と付き合う時に、無理をしてまで付き合う必要はない。知らない人と付き合うのは何にせよ心を遣う一苦労なのだ。その一苦労を、割こうとすること自体が有難いことなのだ。
無理をしてまで付き合う必要がない人達の中で暮らす疎外感を抱く私の感情も自然な感情の流れだったけれど、無理をしなければ知りえない仲間を迎える側の感情も自然発生するものだった。
つまり、不可抗力である。


問題はここからだ。
嫌だと思う相手、感情を傷つけられた相手には、自分も嫌な人間になっていいのか。
私はここで否という。
関わらない。これも一つの付き合い方だ。けれど、挨拶、必要不可欠な連絡まで「しない」というそうした関わらないやり方は否だ。
挨拶は存在の肯定であり、挨拶がないのは存在の否定だからだ。必要不可欠な連絡は、公共性を帯びる社会において、それこそ存在の否定になるからだ。
存在の否定は人権侵害である。だから、これを許す理由にはいかない。許してしまえば、人権を侵害してもいいことになる。感情云々の前に、社会が成り立つ大前提のルールだ。ルールだから人権侵害が許されないと言いたいのではなくて、人権侵害が許される社会は歴史上をみれば一般庶民がかなり切ない社会制度で生きていかなくてはならなくなる。存在が否定されるのが当たり前の社会は、悲劇ではなく悲惨極まる。


そしてこれは正論で、振りかざせば人の感情を傷つける。人の感情を傷つけることも人権侵害である。この正論に傷つく感情は加害者のそれであり、そんなものは傷つけばいいんだと思わなくもないが、やはりそれを認めてしまえば私が矛盾する。整合性のない論理は破綻する。


ただ、嫌な人間、徹底的に距離を置きたい人間は誰にもいるもので、そうした人間とは挨拶もしたくないという感情は理解できる。故に、挨拶をしない愚かな行為も、してしまうことはある。身近で言えば、喧嘩をしたばかりの伴侶には朝の挨拶もしたくなくなるものだ。
でも、私は、どんな時も挨拶する。目を合わせたくない相手にも、挨拶はする。
なぜなら、私が私自身に、「挨拶をしない行為」を許していないからだ。

私は自分を嫌いになりたくない。

ただそれだけの理由である。
例えば、この「挨拶しない行為」を許すとする。腹が立ったら挨拶をしない私を許すとしても、ちっとも楽しくないし、ちっとも褒められないし、ちっとも楽にはならない。ただ、私の胸が疼くだけだ。

これがたぶん冒頭の、私が私を否定するような気がする正体だ。


そうして、あくまで私のではあるがその正論で許されない行為と、感情面でも許したくない行為が合致するなら、そもそも許さないでいいじゃないかと思う。
この正論。きっと、人には人のロジックの組み方があって、色々な正論があるんだと思う。そして感情面でも許したくない行為がそれぞれにあって、それが合致する時、人は「許せない行為」としてそれを自分に課しているんじゃないのか。
そしてこの「許せない行為」を自分に課しているからこそ、人は人に優しくなれるし、愚かさも許せるようになるんじゃないかと思う。許せない行為には、必ずそれをしてしまう人の心理が見え隠れするものだから。

逆にいえばそれが手厳しくなる要因にもなる。

 

じゃぁ、なんでもかんでも許してしまえばいいのか。と言えばそんなことはなく、すると、自分を見失うんじゃないだろうか。少なくとも私は見失う。
自分を大切にって思うなら、「許したくない」その気持ちはうんと大切にするべきだ。人権の観点からみても、感情面からみても。


許したくない気持ちを大切にしながら、人の愚かさも許せるようになれたら、手厳しいその手にも優しさを持てるようになるんじゃないか。


ごめんなさいという言葉はなぜあるかと言えば、私は、許してもらうための言葉ではないと考える。
許されない行為を、許されてはダメだからだ。許されてはダメだから、次は行動に歯止めがかかるのだ。
では何に謝るのかと言えば、愚かさにだろう。

そして、誰もが持つ人の愚かさは迎えられるものだ。

愚かさを迎えるからこそ、対策も打てるようになるのだ。

心の後遺症

心の後遺症の多くは安全になったから起こるんだと思うの。‬
‪「もう安全なんだー」ってうんと満足したい為に起こるんじゃないかと。‬
‪もう違うんだ、今までとはやり方を変えていけるんだって。‬
‪そうだとしたら、今は後遺症が辛くても、うんとその分幸せになれるって話も案外嘘ではない気がする。‬

心の選択肢が増えた分幸せを感じられるのなら、辛かった分苦労した分の幸せとも言い換えるのは可能だから。

 

‪所と相手が変われば手法も変わる。‬
‪よく自分が変わらなきゃ人は変わらないっていうんだけど、人を変えたいがために自分を変えようとするのは苦しいだけだと思うのね。‬
‪性格も感情も、無理やり変えようとするのは人権侵害だし、自分自身のことだからって、してはいけないことなんじゃないのかなぁって。‬

じゃ、何を変えるのかって、まさに手法で。‬
‪怒って聞いた方が答えてくれるのか、優しく聞いた方が答えてくれるのか、何も聞かない方が答えてくれるのか、その人によるからその人に合わせる。

その人に合わせるには、まず、「私はこう思う」を伝えなければ合わせられる所も分からない。‬
‪その手法をね、学んでいければいいんじゃないかと。‬

人と関わっていかないとその手法は増えていかない。その時だけの応急処置的な関わりの手法と、長期的な関わりの手法とがあって、そういう付き合いを経験していかない限りは知り得ない。‬
‪だからどんな人の話も「なるほどね」だし、どんな人にも「なぜそう思うのか」を聞かなきゃ分からない。‬‪

 

積み重なっていくのは、どこでも生きていける生きやすさとしてのスキルではなくて、その人との関わりで積み重ねていく過ごしやすさとしてのスキルなんだろうなぁって。‬

気を遣わないとは、その「なるほど」と「なぜそう思うのか」を、躊躇なく聞けることだと思っている。‬
‪話すのが苦手な人や傷つけるのが嫌だと怯える人がほとんどだし、聞かれただけで否定されたと思ってしまう人も中にはいる。それもかなりの頻度で。私は傷つずに人と会話などできないと思っている人間だから、ずけずけ聞いてよく嫌われる。‬

だからある程度、どう聞いたら話が聞けるのか、話せるのかを関わりの中でその人と築いていくのが信頼になるのだろう。

 

‪(私も昔は、聞かれただけで否定されたと思ってしまう方だったんだけどね。。

傷ついて気がつくことばかりだったから、そうして傷つけることへは酷く鈍感な人間になった。

最低な部類の人間だけど、これはこれで好きなんだなぁ、こんな自分が。

正当化する言い訳をするなら、ちゃんと傷つける側でい続けること。

たぶんそれが私の責任のとり方なんだ。私の言葉で傷ついたという人に謝れるように。勝手に察して分かったふりをするのは、相手と自分に失礼になるし、長期的にみればその方が関係は持続していくことを学んだから。逆に言えばますます、その場限りの付き合いが苦手というか、できなくなりつつあるのはご愛嬌で。なんでも上手くはいかないんだ。どちらを自分が選択するのかでしかないから。

今後、その場限りのなぁなぁさが、人によっては持続していくこともあると学ぶこともあるとは思う。でも、私はそういう付き合い方が好きではないから、相手が良くても私がダメなわけで。

合わせようとしても合わず、合わせてもらっても合わずが、相性なんだろうし、縁なんだ。

人間関係の大抵が、良しあしではないのはこれが理由なのだろうと見当している。)‬

 

余談が長くなった。

話を戻します。(´∀`*)テヘッ


‪心の後遺症は、そうした関係の中で「あの時もこうすることができたなら」と痛みをもたらすものだ。もしくは「あの時はどうすれば良かったんだろう」って。

でもそれは所も相手も違う中で起きた、自分なりのその時最上の手法だったのは間違いない。生きてるからさ、生きてこられたのだから、そこは間違いなかったのだと断定してもいい。

後悔するのは、他にもとれる選択があることを知ったからなんだもの。知らない間は、後悔もできない。ただただ痛むだけの、それこそ蓋をしたまま放置するのがいい記憶になる。

逆に、後悔したりトラウマがパックリ開いたりしている時は、実はその手法を選択しなくてもすむようになったことや、選択肢が増えてることに成長を感じる瞬間だったりする。‬

そういう受け止め方があるよって、心の選択肢の一つとして置いておきたい。ここに。

やみくもに、苦労した分だけ幸せになれるでもなく、辛い思いをしたのだから幸せにならなくちゃでもなく。

そのために「自分を変えなくちゃ」と追い込むのでもなく。

 

「成長しているんだ、

選択肢が増えたんだ、

もう大丈夫なんだ」

って。

心はただ喜びたいんだと思う。

その喜びは、後遺症や後悔というきっかけがもたらすものだから、冒頭に書いたように、辛い分苦労した分の幸せはあるんだろうと、私は思う。