愛があるのは子の方だ
親の愛情不足という文言をまた目にした。
いつも思う。
そもそも親の持つ愛情は愛情なのか、と。
愛を持っているのは子の方だ。
私はその世間の認識を払拭したい。
子供はどんな親だろうが、自分の命を全て委ねる。
受け入れる。
あの、子がよせる親への全幅の信頼と全肯定を私は他に知らない。
親は違う。
子供を全肯定はしない。できない。
他と比べて、歩くのが遅い、喋るのが遅い、字を覚えるのが遅いとできないことに不安する。
できたとしても、そのできたことに喜び、価値をおき、もっともっとと欲する。
こんな子に育って欲しいと願い、要求する。
果たしてそれを愛情とよぶのか?
一方、子供は、親を全肯定する。
疑うことをしない。
親のすること、やること、望むことを、真似して成長していく。
親の要求することに懸命に応えようとする。
虐待を受けた多くの子供が、なぜ揃えたように「私が悪い子だから」と口にするのか。
それは、親を全肯定している表れのひとつだ。
と、私は思う。
愛情があるのは親ではない。
愛を与えるのも親ではない。
子供から愛を貰っているのだ。
愛を貰うから、そしてその子供の愛に気づかされるから、親は子に愛情を抱くのではないか。
そうした子供の愛に気づけない、子供の愛を受け入れられない人が、「子供を愛せない」と嘆くのではないか。全肯定されるのは、実は怖いことだから。
だから親は、子育てをしながら自分の心を見つめ直すことになる。
自分で自分を肯定していくことができて、やっと、他から貰う肯定を受け入れられるようになるものだから。
親は、そうした子供の持つ愛(信頼、全肯定)に、どれだけ応えてあげられるのか、ではないか。
人ひとりの信頼に応え続けていくことは怖い。しんどい。辛い。
全肯定されることが、こんなに怖いことだなんてと、私は慄いたものだ。そうして愛おしくなった。
目の前の委ねられた命は、私がどんな人間かも知らずに、全てを預けている。私が「良いこと」と言ったらそれを「そうだ」と信じる。きっと、カラスは白いと教えたらこの子は「白」だと思うのだ。楽しいと笑えば、楽しいと感じるようになるのだ。
正しいことが何かも分からない人間が、この子に正しいことなど教えられるのか?
そうした怖さがいつもあった。
だから、子供は一人では育ててはいけないのだと思う。
私が正しい、良いこと、楽しいと感じることばかりではなく、より多くの人の、正しい、良いこと、楽しいに触れられるように。
そうして、その中から、自分の正しい、良いこと、楽しいが創られていくように。
間違っても、親の思う正しい、良いこと、楽しいを押しつけたりして、それが絶対だと思わなくてもすむように。
それでも「愛情不足」という言葉を使いたい人がいるなら、それは、子供の愛に応えられない大人社会の愛情不足だ。互いが信頼し、肯定しあえる社会がないことにある。
子供の愛に応えてあげられる社会の実現は、誰もがかつて子供であったことを思えば、誰にとっても自分の愛に応えてくれる社会であるといえるのではないだろうか。
愛を、「望み」とはき違えることがなければ。