感情の行方
中学の頃、クラスで「火垂るの墓」を観た時、私は泣いた。クラスメイトの何人かは、それを「ぶりっ子」アピールと受け取った。私は、そう受け取られたことにもショックを受けた。
ただ悲しかっただけなのに、なぜそんな風に受け取られてしまったんだろうって。
母によく、嘘泣きをするなと怒られた。あれは、「感情を使って人を操ろうとするな」と言いたかったんだと、今ならわかる。
子供は、とある感情によって他人を操れることに味をしめると、嘘泣きを覚えるし、嘘怒りを覚えるし、嘘笑いをするようになる。それは成長の過程だ。そこで、「感情を使って人を操ることの危険性」を教えて貰えないのは不幸の一つだと思う。
とはいえ、本当に、悲しさや怒りや喜びを抱えたとき、幼かった私はどうしていいのかわからなくなってしまった。
たぶんだけど、なぜ母はそうした感情を執拗に嘘をつくなと怒ったのかといえば、操られたくなかったからだと思う。操られたくなかった母と、操りたかった私の攻防は拗れて、私は、母は私の望みを叶えたくないのだ、私などどうでもいいのだ、嫌いなんだと思うようになっていった。
けれど、操りたいところを感情が離れたら、私はただそう思っていただけになった。そして、愛していたことも、今も愛していることにも、気がつけた。
この、感情に操られたくない人は多々いて、操られたくない人の方が、他者感情に翻弄されやすいのだと思う。
中学の頃の何人かのクラスメイトも、きっと私のみせた感情に、ただ操られたくなかっただけなのだろう。
処世術として覚えたことは、今抱えてる私の感情によって、どうこうしようと考えなくてもいいですと伝えることだった。どうこう考えたくなるでしょ、そんな感情みせられたら!って言われたら、ウフフありがとうってちゃっかり受け取ることだった。それでも、あなたはあなたの感情に従ってくれればいいんだよって、ことある毎に伝えていくこと。
感情は使うものではなくみせるものだ。
使うようになると、感情をみせるのが怖くなるし恥ずかしくなる。何かが変わってくれないと、その感情は無駄になるし、変わらないといけないものになるし、芽生えるだけで罪悪感を伴うようになってしまう。
例えばこうだ。
そんな風に思ってなどないくせにと、指摘されるのが怖くなる。
思ってもいないことだから恥ずかしくなる。
変わらないものに何かを思うなんて、無駄だから思うこと自体をやめてしまおう。
せっかくこんな感情になったのだから、何かをしなければ気が済まない。
怒ることは誰かを操ろうとすることで、そんなのはいけないことなのに。
などなど。
みせるだけでいいのなら、ショーウィンドウに並んだ洋服と同じで、目に止まった人とウフフ、ウフフって確認するだけのものになる。どんな感情も、流行りのように、流れていくものになる。自由に、漂っていける。
そうして感情っていうのは、自由なものだ。使おうとしなければ。いつだって。
怒りも悲しみも喜びも楽しさも、芽生えただけの感情はそのままに、みせてもいいし、みせなくてもいいもので。
たまらずに溢れてしまったものが垣間見えても、あぁそうなんだねでよくなる。
そうしたら、互いに構えることなしに、気持ちはみせあえるものになっていくと思うんだ。